渡辺喜美が石破総理に送った“緊急メール”の中身「これはまずい」…石破の「政治の師」長男との阿吽の呼吸

自民党総裁選で逆転勝ちした石破茂総裁が10月1日、第102代首相に就任した。自らの内閣を「納得と共感内閣」と名付け、就任から解散まで戦後最短となる10月15日公示、同27日投開票の日程で衆院選を実施する。5度目の挑戦で総裁選に勝利した石破氏は、これまで「政治の師」と仰ぐ渡辺美智雄元副総理の言葉を多用してきた。元副総理の長男で行政改革担当相などを務めた渡辺喜美氏に緊急インタビューを実施し、石破首相への思いや提言などを語ってもらった。全2回の前編(聞き手・経済アナリストの佐藤健太氏)
目次
角栄「なあ、ミッチャン。石破の倅を面倒みてくれんかね」
――石破首相は10月4日の所信表明演説で「昭和60年に、渡辺美智雄代議士の『政治家の仕事は勇気と真心をもって真実を語ることだ』との言葉に大きな感銘を受けました。爾来、40年、こうありたいと思い続け、今、この壇上に立っています」と語りました。渡辺元副総理の長男として、どのように感じましたか。
(渡辺氏)
歴代首相の所信表明は、アルベルト・アインシュタインとか、芦田均元首相とか、歴史上の人物を引き合いに出すことが多い。そこに渡辺美智雄を持ってきたのは「格落ちだ」みたいなことを読売新聞の飯塚恵子氏がBS日テレ「深層NEWS」で語っていた。「格落ち」なのかどうかは別として、石破首相にとって渡辺美智雄の「ミッチー語録」はそれだけ心に刺さっていたということだろう。
石破首相は昭和59年(1984年)、父親の石破二朗元建設相が属していた田中角栄氏の派閥「木曜クラブ」の事務局職員だった。角さんから私の親父が頼まれて「渡辺派」(温知会)で預かった経緯がある。秘書をしていた私が電話を取り次いだので良く覚えているが、角さんは例のダミ声で「なあ、ミッチャン。石破の倅を面倒みてくれんかね。よろしく頼むよ」という感じだった。当時は中選挙区の鳥取全県区で田中派は平林鴻三代議士を抱えていた。
温知会所属の島田安夫代議士が突然亡くなり、渡辺派は後継候補を模索している最中だった。鳥取県は東部・中部・西部の3地域にわかれており、石破首相の地盤は東部、島田氏は中部だったので当選するにはどうしても「島田後継」のお墨付きが必要だった。
石破首相は、私の親父の話に大変感銘を受けたようだった
――石破首相の著書にも、銀行員から立候補する際の経緯が記されています。田中角栄元首相と渡辺副総理には特別な思いがあると強く感じるもので、首相の原点はその時にあるのですね。
(渡辺氏)
まだ20代の石破首相にしてみれば、親の代から馴染んできた田中派から「離れ養子」か「里子」に出されるようなもので、寂しい思いもあったのではないか。私が鳥取担当となり、島田後援会を石破後援会に「衣替え」する作業をやった。島田氏のご子息が選挙に出ないよう説得する役回りは非常に切ないものがあった。
渡辺派として「まごころ」を持って徹底支援した。ちなみに「ミッチー語録」のまごころとは、「ああ、この人だったらある程度までお任せで良いか」という信頼関係のことだ。まごころが通いあっていれば、コミュニケーションはとっても容易になるし、逆の場合は、いくら美辞麗句を並べてみても相手は理解してくれない、となる。
昭和60年(1985年)8月の温知会研修会に参加した石破首相は、私の親父の話に大変感銘を受けたようだった。新人の候補予定者向けの講演だったかも知れないが、「君たちは何のために政治家を目指すのか。カネ儲けがしたいのか、名誉が欲しいのか、女にモテたいのか?」と。そして、「そういう者は今すぐこの場を去れ。政治家になって実現したい志があるだろう。その原点を忘れるな。迷った時には原点を振り返れ。『政治家の仕事は勇気とまごころを持って真実を語ること』だ。志を実現する道は近くにある」というような話だったと記憶している。
後日、石破首相から「テープが欲しい」と言われ、ダビングして渡した。地元回りの移動中、車中でテープが擦り切れるほど聞いたそうだ。ちなみに、昭和61年(1986年)の総選挙(衆参ダブル選挙)は、島田氏のご子息が無所属で出馬したものの、石破首相は最下位ながら初当選を飾った。
石破首相が初当選した頃、日本はバブル景気の真っ只中
――今年の9月15日は渡辺元副総理の30回目の命日でした。積極財政・金融緩和の上で徹底した不良債権の間接償却と公的資本注入をやるべし、というミッチーの持論は今も評価されていますが、なぜ石破首相に「ミッチー語録」が響いていると思いますか。