「ホテルオークラ史上最大規模のパーティー」を開いた男は田中角栄の誘いを断り、東証・大蔵省・四大証券につぶされた

「兜町の風雲児」と呼ばれた加藤暠(あきら)。そんな加藤は「宮地鉄工所の仕手戦」を仕掛けたが、東証・大蔵省・四大証券を敵に回し、執拗な“加藤つぶし”に遭った。飛ぶ鳥を落とす勢いを見せていた加藤に、果たして何が起こったのか。ノンフィクション作家の西﨑伸彦氏が追った。全3回中の2回目。
※本稿は西﨑伸彦『株の怪物 仕手の本尊と呼ばれた男・加藤暠の生涯』(宝島社)より抜粋・再構成したものです。
第1回:200円の株価が2900円に!「兜町の風雲児」が仕掛けた伝説の仕手戦
第3回:「拘置所にいたおかげで、殺すのを後回しにされた」兜町の風雲児が考え出した斬新すぎる投資のスキーム
目次
ターニングポイントは「田中角栄の誘い」
一九八〇年七月十七日には、鈴木善幸内閣が誕生した。そんな中で田中角栄は、一層政権への影響力を強めて行き、十月には腹心の二階堂進を会長に据えて、田中派を木曜クラブに衣替えした。やがて所属議員が一〇〇人を超え、最大最強の派閥となった。そのオーナーである田中が、加藤暠に秋波を送った場面があったという。
ちょうど誠備グループから宮地鉄工所に役員が送り込まれた頃だった。彼ら部外者が内部資料に目を通すことができるようになり、宮地鉄工所側も焦りを感じ始めていたのだろう。
伝令役を務めたのは、加藤暠と同じ早稲田大出身の渡部恒三だった。福島県議を経て、一九六九年の衆院選に無所属で立候補し、初当選。その直後に田中角栄に口説かれて自民党入りし、田中の薫陶を受けた一人である。渡部は「オヤジに言われて来ました」と丁寧に挨拶し、角栄の言葉をそのまま伝えながらこう言った。
「加藤は何も分かっていないんじゃないか。恒三、加藤のところに行って来い。ゴルフ場で二人きりで会おうと言っている、と」
しかし、加藤は「私は、(角栄の政敵である)福田さんと縁があり、福田派と付き合いが多い。会う訳にはいかない」と断った。それは加藤の人生にとって最大のターニングポイントだった。
ここから勝負の潮目は明らかに加藤不利に傾いていく。長期に及んだ仕手戦で、手元資金が苦しくなってきた誠備グループ側は十二月下旬、保有する丸善の株式三三〇万株を金融クロスに振り、その担保に宮地鉄工株を当てた。
金融クロスとは、手持ちの株式を現物で売ると同時に、同数を信用取引で買い戻し、受取代金と信用取引に要する資金との差額を資金繰りに回す手法である。信用取引で株を買う場合、代金の三割を保証金として積むと、あとは六カ月後に決済となるため、その間、差額の七割が手元に残る仕組みだった。
“ホテルオークラ史上最大規模のパーティー”を開催
誠備グループ側が保有していた丸善株は要注意銘柄として厳しい規制下にあったが、十二月四日に突如規制が緩められ、五割の保証金で信用取引が可能になっていた。中小の証券会社二十二社が引き受け、誠備グループは計約五〇億円の資金調達に成功したが、これで一気に誠備の台所事情の苦しさが露呈する結果になった。
丸善株の規制緩和の措置は、加藤を誘い込む〝罠〞だったのではないかと指摘する声すらあった。それでも強気の姿勢を崩さなかった加藤は、十二月二十二日にホテルオークラの「平安の間」で「誠備廿日会忘年パーティー」と銘打ち、約六百人の出席者を集めた忘年会を開催した。
「われわれ弱き大衆投資家は、これまでいつも貧乏クジを引かされ、敗者の道を歩んできた。勝者への架け橋、それが宮地鉄工です。宮地鉄工は野に咲く花。これを逞しく大輪の花に咲かせなければならない」
加藤は、壇上からそう高らかに声をあげた。その時の様子を、妻の幸子が振り返る。
「漫才ブームの渦中にあったツービートや都はるみさん、高田みづえさん、西川峰子さん、舟木一夫さんなどの芸能人の方々も駆け付けて下さいました。当時主人は、プロ野球の金田正一さんと非常に親しかったので、その繫がりで来て頂いた方もいて、大盛況でした。最後は主人がファンだった島倉千代子さんを招いて、代表曲の『からたち日記』をデュエット。顔なじみのホテルのスタッフは『オークラ始まって以来の大規模イベントでした』と感想を漏らしていました」
張り巡らされる“加藤包囲網”
しかし、その威勢とは裏腹に、買い占めた大量の株を抱えたまま売り先も見つけられず、加藤はがんじがらめの状態に陥っていた。金融クロスで得た資金で戦線を拡大し、安藤建設、石井鉄工所などの株価を上げていったが、翌八一年一月二十日に東証が谷村裕理事長名で、〝誠備潰し〞ともとれる通達を出し、さらに窮地に追い込まれていった。
「株価が会社の実態とかけはなれている株式の信用取引には担保を十分とるように」と注意喚起を呼びかける趣旨の通達で、これを拡大解釈した四大証券と準大手八社は、宮地鉄工所、安藤建設、西華産業、丸善、新電元工業、石井鉄工所、塚本商事の七銘柄については、客に信用取引をさせず、また現金代用の担保としても引き取らないことを申し合わせた。
七銘柄のうち塚本商事を除く六銘柄は、まさに誠備銘柄だった。さらに中小証券社長会は、七銘柄にラサ工業と日立精機を加えた銘柄を信用取引の対象外にすることを決定。この二銘柄もまた、誠備銘柄に他ならなかった。
もはや誠備グループは所有株式を担保に新しい投機にも手を出すことができず、追加の資金調達をしなければ、所有株式を買い増すこともできない状態だった。東証、大蔵省、四大証券……。気付けば、周りは敵だらけだった。
二月に入ると、加藤の元には東証の理事長の谷村裕、野村證券会長の瀬川美能留、東京国税局長の宮下鉄巳、そして読売新聞の記者が赤坂の料亭「つる中」で誠備潰しの謀議を行なったとの情報がもたらされた。しかし、頼みの綱だった政財界の黒幕とも言われた日本船舶振興会会長の笹川良一も動く気配はなく、成す術はなかった。
加藤の逮捕、市場は混乱
東証の谷村は元大蔵事務次官で、加藤のヂーゼル機器株の仕手戦の際、肩代わりを目的とした買い占め防止策としてヂーゼル機器を「特別報告銘柄」の第一号に指定した張本人だった。
そして谷村の子飼いで、当時大蔵省の大臣官房審議官(証券局担当)として根回しをしたのが宮下である。特別報告銘柄は一九九〇年に廃止されるが、十二年間で、指定された銘柄はヂーゼル機器のみ。いわば加藤を標的にした制度だったと言っても過言ではない。
加藤は誠備のセミナーで、この宮下について、「アロエを食べるのが好きで、どの行きつけの料亭でも酒にアロエを添えて出すので、渾名はアロエさん」などと冗談を言い、本来は証券局長を経て、東証の理事長まで続く出世コースを歩むところ、東京国税局長に異動させたのは、自分の政治力だったと語っていた。敵視していた谷村と宮下の名前が揃って出たことで、加藤の心中は穏やかではなかっただろう。
規制当局による一斉攻撃に対し、誠備グループ側も必死の抵抗をみせ、二月初めには一部の銘柄に復調の兆しはみられたが、それも残燭の一閃に過ぎなかった。二月十六日、加藤は東京ヒルトンホテルの一室で、「つる中」の謀議の証拠写真と思しきものを知人と見ていたところに、東京地検特捜部の係官が現れ、所得税法違反(脱税)で逮捕された。
その翌日から、兜町は誠備銘柄が軒並み暴落し、投げ売りのパニック状態に陥った。