90年代カンボジアの売春「世界で一番ひどかった」アングラ潜入ライターが明かすヤバすぎる実態

1990年代から四半世紀にわたり激動の東南アジアでアンダーグラウンドの世界に身を置き、その破天荒な実態を発信してきた作家、クーロン黒沢氏。かつての「楽園」が日本をしのぐ物価高の国へと変貌した今、氏は何を思うのか。90年代東南アジアの光と闇から、祭りが終わった後の儚い現実にいたるまで、存分に語ってもらった。短期連載全4回の第2回。(取材日:5月28日)
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90年代カンボジアの売春「たぶん世界で一番ひどかった」
――売春って、タイのイメージが強かったんですけど、カンボジアにもそういうのがあったわけなんですね。
カンボジアは、1990年代の当時はたぶん世界で一番ひどかったぐらいの感じだったと思います。
――カンボジア人の女性が、そういうお店にいるんですかね?
6割ぐらいがカンボジア人で、4割ぐらいはベトナム人。訳ありでベトナムに暮らせなくなった人たちですね。
――他にはどんな日本人がいらっしゃいましたか?
日本人のバックパッカーに親しげに話しかけて、「部屋ちょっと見せてよ」って言って、部屋を見て、というのをやっている日本人がいて。でもその部屋っていうのは、あらかじめ自分が、普段から泊まり歩いている部屋なんですね。泊まるたびにそこの合鍵を作っておくんです。
それで片っ端から、バックパッカーが部屋にいない間に泥棒に入るっていう。逮捕されたときに、合鍵を300個ぐらいストックしていたらしいです。僕の友達でも2人、身ぐるみはがされた人がいて、そのうちの1人が最後、執念で捕まえたんですよ。
当時の沈没者たちは今何をしているのか「よぼよぼになって…」
――キャピトルゲストハウス、僕も名前は知っているんですけど、最近行った人に聞いたら、もうただのキラキラなゲストハウスになっていたという話でした。
そうですね。今バス会社をやっているんで、バス乗り場みたいになってしまって。でもカフェはやっていて、白人とかですけど、当時いた人たちの中の2、3%ぐらいはよぼよぼになってまだ残っていますよ。
――その人たちは、相変わらずドラッグと売春を……。
いやあ、もうじいさんなんで(笑)。
――おじいさんになってもカンボジアから離れられないっていうのは、どんな生活なんですかね。
それだけ長いこといるってことは、結婚してるとか、現地人の彼女かなんかがいて、がんじがらめにされて動けなくなっちゃうみたいな、そういうパターンだと思います。
――黒沢さんはカンボジアに帰る気とかはないんですか?
もう今は、大げさに言うんじゃなくて、日本より物価が高いんですよ。
――そうなんですか。
コーヒーとか、その辺のしょぼい店で飲んでも4ドルとか。日本食屋さんもいっぱいできたので、牛丼なんかもたとえば、大しておいしくなくても8ドルとかしちゃうんです。
ひどすぎて伝説になった日本人食堂「道で嘔吐」が日常風景
――当時のカンボジアで、有名な日本人食堂がありましたよね。
ありました。「京都」ですね。
――そのお店は、もうないんですか?
3年ぐらいで潰れたんじゃないですかね。3年も持ったのが奇跡みたいな店です。
――どんなひどい店だったんですか?
もうとにかく全部腐ってる。通りをちょっと曲がって、10mくらい行ったところにあるんですけど、そこから日本人が走ってきて、道で嘔吐しているんですよ。でもそこしか食べに行く場所がないので。
――そんなことないんじゃないですか。