賃金が上がらない日本と格差が広がるアメリカ、どちらが根深い問題なのか

BNPパリバ証券経済調査本部長・チーフエコノミストの河野龍太郎氏は、「大国アメリカ」にも、見過ごせない経済危機が生まれていると指摘する。アメリカにはどのような問題があり、日本の問題とどう共通している、あるいは異なっているのか。河野氏とみずほ銀行チーフマーケット・エコノミストの唐鎌大輔氏が解説する。全3回中の第3回。
※本稿は河野龍太郎・唐鎌大輔著「世界経済の死角」(幻冬舎新書)から抜粋、再構成したものです。
第1回:なぜ日本だけ給料が上がらないのか?その答えは「ノルム」にあった!
第2回:エコノミスト「日本の危機はアメリカ次第」円はドル体制の安定性に組み込まれている
目次
挑戦者をつぶす巨大テック企業
河野:アメリカの何が問題なのか。まずあげられるのは、企業献金が青天井で、金権政治が横行していることです。政治の世界だけでなく、アメリカ社会全体において「お金がモノを言う」構造が深く根づいています。
また、アメリカでは「イノベーションが絶えず生まれている」と言われていますが、その恩恵はごく一部の高所得者層に集中しており、社会全体には十分に行き渡っていません。
さらに、多くの人にとっては意外かもしれませんが、イノベーションが繰り返されているという言説も怪しくなっています。
多くの人がイノベーションの担い手と見なしている巨大テック企業は、実のところ、自らが築いた支配的な技術(ドミナント・デザイン)を脅かすような新たな挑戦者を早い段階で買収して取り込んだり、あるいは世に出る前につぶしてしまったりすることで、むしろイノベーションを妨げる行動も目立っています。このような収奪的な傾向が強まれば、やがてアメリカ経済の成長も止まる可能性があると警鐘を鳴らしたわけです。
唐鎌:なるほど。表面的には経済成長しているように見えても、制度の中身がごく一部の階層の利益のために歪められているので、成長の果実は広く行き渡らず、やがて社会の活力も失われていく、と。まさにドナルド・トランプという政治家が誕生した時代背景と重なります。
バイデン政権では、そのような動きを抑止しようという試みが多少ありましたよね。
河野:はい。バイデン政権の下で、ようやく巨大テック企業の独占的な行動を抑制しようとする動きが始まりました。しかし、結局のところ、これらの企業は巨額の政治献金を背景としたロビー活動によって、そうした規制から逃げおおせたようです。
バイデン大統領は、独占企業に厳しい姿勢で知られるリナ・カーンという人物を連邦取引委員会の委員長に据え、巨大テック企業への規制強化を試みました。ところがその後、トランプ大統領は一転して、規制緩和を重視する人物を新たな委員長に指名しました。今後、この流れは再び巨大テック企業にとって、かなり有利に働くと思われます。
もともと巨大テック企業や大手金融機関は民主党を支持していましたが、トランプ氏の再選が現実味を帯びる中で、次々と支持を鞍替えしました。
現在のアメリカでは、まるでロシアのプーチン政権を支える「オリガルヒ(寡頭支配者)」のように「ITオリガルヒ」や「金融オリガルヒ」が形成される雰囲気です。
当初は、「トランプ流の経済ナショナリズムが新自由主義を打ち砕き、より包摂的な社会をもたらすのではないか」と期待した人もいました。しかし実際には、包摂とはほど遠く、むしろ映画「バットマン」のゴッサム・シティのような、格差と混沌が支配する社会に近づいているようにも見えます。
いくらイノベーションが進んだとしても、社会制度が一部の階層にしか富をもたらさないような偏った構造のままであれば、一国全体の繁栄にはつながらないということです。
日本で賃金が上がらない二つの仕組み
唐鎌:アメリカだけでなく、日本にも共通する問題かもしれませんね。生産性と実質賃金のアンバランスを踏まえれば、日本も経済成長による恩恵が一部の大企業や資産を持つ人に偏っており、広く分配されていない状況が続いてきたと思います。その点で言えば、アメリカ的でもある。でも明らかに違う。何が違うのでしょうか。
河野:日本では、メインバンク制が崩壊した後も、企業は長期雇用制度を何とか維持しようとしました。メインバンクに依存しなくても経営が成り立つように、大企業は自らの自己資本を積み増す必要があったわけですが、そのために取られた手段が2つありました。
一つは、正社員のベースアップを事実上凍結する「実質ゼロベア」。もう一つは、セーフティネットのない非正規雇用の比率を高めることでした。
その結果、過去四半世紀にわたって、時間当たりの生産性が上昇しても、正社員の実質賃金はほとんど上がらず、抑え込まれ続けてきました。
唐鎌:なるほど。「正社員として働く人の長期雇用を守った」という点で、アメリカとは異なるわけですね。アメリカほどごく一部の階級が守られたわけではないけれども、「一部の階層だけ守られた」という意味では同じではありますよね。
河野:そうですね。これに対して、非正規雇用者の賃金は労働需給によって多少変動するものの、もともとの水準が非常に低く、経験を積んでも賃金がほとんど上がらない構造になっています。
こうした状況の中で、マクロ経済全体を見渡すと、企業が生み出した「超過リターン(レント)」、つまり、株主のリスクに見合う報酬を超える利益は、労働者にはいっさい分配されず、もっぱら株主のもとへと流れていく構造になってしまいました。
「絶望死」が社会問題になっているアメリカ
河野:では、アメリカはどうかというと、たしかにヨーロッパに比べると、「超過リターン(レント)」の配分は株主に偏りがちです。それでも日本とは異なり、その一部は労働者にも還元されています。だから実質賃金も上がっているわけです。
この点だけを見れば、アメリカのほうが日本より労働者への分配が進んでいると言えます。
しかし、だからといってアメリカのほうが健全な社会かというと、決してそうではありません。1980年代後半以降、アメリカでは上位5%の高所得者層の実質所得が大きく伸びる一方で、下位20%の所得階層の実質所得は足踏みが続き、時間の経過とともに格差は拡大しています。ここまで極端な所得格差は、さすがに今の日本では見られません。
さらに、こうした格差構造が引き起こす社会的ストレスは、低中所得者層の白人男性の間で、薬物の過剰摂取、アルコール性肝疾患、自殺といった要因による死亡の増加をもたらしています。経済学者のアンガス・ディートンとアン・ケースは、こうした現象を〝絶望死〟と呼んでいます。中間層の没落は、単なる経済問題にとどまらず、地域共同体の崩壊や人々の健康、そして生命にまで深刻な影響を及ぼしているのです(『絶望死のアメリカ』みすず書房、2021年刊)。
日本では“絶望死”が社会問題になるまでには到っていません。とはいえ、「大企業がどれだけ利益を上げても、それが労働者に十分に分配されていない」という分配の歪みが、個人消費の停滞を招き、企業の国内売上の低迷、さらには長期的な経済停滞を引き起こしているので、見過ごすわけにはいかないのです。
唐鎌:近年、伸び幅を取り戻し始めた日本における春闘も、インフレ以上の伸び幅、いわゆる実質ゼロベア以上になってこない限り、これまでと本質的に変わっていないわけですよね。
不幸中の幸いとして、人手不足が極まっていますから、これを契機に日本企業の労働分配への考え方も変わってくることを期待したいです。