「バラードを歌いたい」と語ったあ〜ちゃんを説得…吉田豪が明かす“Perfume夜明け前”の記憶

Perfumeが「コールドスリープ」と題して年内での活動休止を発表した。2007年の「ポリリズム」で一気にブレイクして以降、テクノポップを時代の先端に押し上げ、気がつけば日本のポップカルチャーの象徴となった3人組。その活動にいったん区切りがつくことは、多くのファンに衝撃を与えたはずだ。そんなニュースを受けて、長年アイドルやカルチャーの現場を見続けてきた吉田豪氏が、“売れる前の彼女たち”にスポットを当てて思い出を振り返る。
目次
深夜テレビで…中田ヤスタカ体制一作目に衝撃を受けた
Perfumeとは関わった期間が短いのでボクが語れることにも限りがあるんですけど、理想的な活動の仕方をずっと続けてきた本当に珍しいグループだとつくづく思いましたね。今回も「コールドスリープ(活動休止)」とは言っているけど、それがどこまで続くものなのかはまだ何もわからない。ただ、その発表の仕方や、いろんな意味が込められてるっぽい新曲『巡ループ』のMVとかまで含めて、やっぱりちゃんとしていたなあ、アミューズは真っ当な事務所だなあ、と。
歴史をさかのぼると、広島アクターズスクールで出会った小学生時代から入れたら下積みは相当長いんですよね。それこそ結成自体は00年なので。02年にローカルアイドルとして、いわゆる平仮名「ぱふゅ〜む」名義でアミューズ所属のパッパラー河合プロデュースでシングルを2枚出したときも、当然のように話題にはならなくて。そこから、アミューズに目を付けられたことで03年に上京して新人育成プロジェクト「BEE-HIVE」に入ってからも、まだまだ長い。会社側がBuzyとか当時アミューズに所属していた他の女の子たちと一緒に合宿所に入れて、24時間ライブカメラを設置するという無茶な企画をやってたから、当時何度か見た記憶もありますね。ただ、とにかく全てが早すぎて上京後もやっぱり話題にはなりませんでした。
とはいえ、そのタイミングで楽曲のプロデュースがまだド新人の中田ヤスタカに任されたことが奇跡の始まりだったんですよね。Perfume名義で中田ヤスタカ楽曲を歌った最初のシングルが「スウィートドーナッツ」で、ボクは偶然フジテレビの深夜番組で『GIRL POP FACTORY 03』(2003年7月29日)のLIVE映像が流れたのを見た瞬間、度肝を抜かれました。「なんだこれは!」って、ちょうどリリースタイミングだったシングルを買いに走ったら全曲良くて。これはやばいって騒ぎ始めたんですけど、友人のコンバットRECには「豪ちゃん、まだこういう音楽好きなんだ」って、要は“センスが古いね”的なことを言われた記憶があります。その数年後、RECは申し訳ないとというイベントで彼女たちのLIVEを観るなり「俺もPerfumeのメンバーになりたい!」とか言い出して、すぐ会場で会ったPerfume本人に報告したこともあったんですけど、それぐらい当時は評価する人も少なかったんですよ。
「アイドルには触れるな」当時は雑誌紹介も止められていた
だって当時、ボクが連載していた『クロスビート』のコラムページで「スウィートドーナッツ」を紹介しようとしたら、編集に「本当にやめてください! そういう雑誌じゃないんです!」って止められましたから(笑)。洋楽誌でアイドルを扱うのはご法度、みたいな空気がまだ強かった時代だったんですよね。その後、06年の年間ベストで実質的なデビューアルバムである『Perfume~Complete Best~』を紹介したら、その頃でも「洋楽誌でアイドルを取り上げてると思って、あれがきっかけで初めて聴きました」みたいな人に何人も会いましたね。
この頃のボクはまだ現場に全然行かない時期だったんですけど、さすがに我慢できなくなって04年9月の『ビタミンドロップ』発売時に新宿TSUTAYAのイベントに行ってみたら、インストアライブとかじゃなくてお渡し会だったからか、お客さんは5人くらいしかいなかった。しかも、いま調べたら「サクラも含めて10人程度」だったとか書かれていて、当時はそれぐらいの規模感だったんですよ。その後、布教活動を頑張ってファン代表みたいになる掟ポルシェも、まだ彼女たちに出会う前でしたからね。モーニング娘。のブームはあったけど、地下アイドルバブル以前で、まだまだ大人がアイドルなんか聴いてたらナメられる時代。大手事務所所属なのに、アイドル雑誌でインタビューをねじ込むことすらも大変だったんですよ。