実はヤバイ!日銀ETF「売却100年超計画」下落局面で資本市場リスクが高まるワケ「5つのガバナンス課題」

日銀が、9月の金融政策決定会合で、保有する上場投資信託(ETF)と不動産投資信託(REIT)の市場売却を正式に決定した。およそ15年にわたり続いてきた「異例の買い入れ政策」は、ついに“売却”へと大きく舵を切ったことになる。その影響は金融市場だけにとどまらない。株価形成や企業の資本政策、さらにコーポレートガバナンスの在り方にまで波及しうる「出口戦略」は、企業と投資家に新たな問いを突きつけている。日経新聞編集委員・小平龍四郎氏が、この歴史的決定の本質と日本企業へのインパクトを読み解く。
目次
「異例の政策」に幕──ETF買入れから市場売却へ
2025年9月、日銀がついに上場投資信託(ETF)の市場売却に踏み切った。長らく「異例の政策には異例の出口が求められる」と言われ続けた“ETFの出口戦略”は、ついに運用から処分への段階へと移行したのである。この決定は、単なる金融政策の転換ではない。市場構造、政府と日銀の関係、企業の資本政策、さらには企業統治(ガバナンス)の在り方にまで波及する複層的な問いを、私たちに突きつけている。
まず、日銀のETF買入れは2010年に開始され、2013年以降の「異次元緩和」フェーズで急速に拡大してきた。2025年9月時点では、その保有規模は約85兆円に達し、東証プライム市場の時価総額約8%相当という巨大資産になっていた。
売却案としては、政府系ファンドへの移管、ETFの配当を公共用途に使う政策案なども議論された。また、折からの「貯蓄から投資へ」の政策目標に沿い、日本国民に一律、割り当てる案なども、証券会社は期待した。
しかし、最終的には市場で段階的に売却する案に収斂した。2024年中には方向性は固まり、最大の焦点は「いつ公表し、いつ売却を開始するか」というタイミングの見極めだった。
トランプ政権の関税政策などで世界経済・市場が揺れていた7月案は見送られた。日銀関係者の一人は、「ETF売却のような繊細な政策を、政治の影に晒さず、市場を動揺させないタイミングで発表せねばならなかった」と語る。
そして、9月中旬、米国との貿易合意が成立し、株価が最高値圏にあったという状況が整った瞬間に、日銀は密かに決意を固めた。官邸にも直前まで知らせず、発表の瞬間を迎えたという。その意味で、この決断は「このタイミングしかなかった」ものだった。
「100年計画」は絶対ではない 日銀が残した“含み”
この売却決定において日銀は、売却を「100年以上かけて行う」との長期プランを示した。実際、簿価ベースでETF38兆円+J REIT6,500億円弱という規模から、ゆっくり売ると100年超を要するとの見通しも示されている。
ただし、この「100年計画」は固定的なものではなく、状況次第で売却ペースを柔軟に修正する余地があるという含みもまた、日銀自身の声明から読み取れる。
日銀のETF保有に対しては、長年以下の三つの懸念が指摘されてきた。
1. 企業統治への悪影響(モラルハザードの助長)
2. 株価形成のゆがみ(市場メカニズムの歪み)
3. 中央銀行の財務リスクの拡大
なかでも特に重視されるのが、2点目の「株価形成のゆがみ」である。株価が一定水準を下回ると、午後に日銀がETFを買いに出るという“日銀トレード”の観測は市中に根強く、実体企業価値から乖離した株価水準の形成を招く可能性があるという批判がある。多くの投資家は、日銀のETF買入れを「リスクプレミアムの抑制」と正当化する一方で、それを「相場の下支え」としか見なさなかった。
今後、日銀は“売り手”となる可能性を帯びる。株価下落時にETF売却を余儀なくされる場面が想定されるなら、企業にとってはこれまで以上の資本市場リスクが生じる。
大和総研フェローが警鐘「簿価売却を徹底しなければ…」
一方、3点目の懸念──財務リスク──も無視できない。保有ETFの評価損が生じた場合、日銀は引当金を積む必要がある。すなわち、含み損が自己資本を傷める構造が内在しており、それが中央銀行としての健全性を揺るがす可能性もある。
この点を深く洞察しているのが、大和総研の塩村賢史氏(フェロー兼エグゼクティブ・サステナビリティ・アドバイザー)が9月26日に発表したレポート「日銀のETF売却とスチュワードシップ責任」である。
塩村氏は、簿価ベースでの売却を厳格に行わない限り、時価ベースではETFの保有残高が逆に増加してしまうリスクを指摘している、また、時価売却ペースを柔軟に管理しつつも、日銀が長期にわたって日本企業の大株主であり続ける状態は変わらないという見解を示す。
すなわち、売却表明後も日銀は市場で存在感を保ち続ける「超長期投資家」として、スチュワードシップ責任を果たす立ち位置が求められるというのである。
ETF保有は本当にガバナンスを歪めたのか──研究成果が示す逆説
そのうえで塩村氏は「日銀が保有するETFを運用する投資信託会社のスチュワードシップ評価を行い、その評価に基づいて年間の売却額を決定するというような方法などが考えられよう」と提言している。
そもそも、日銀のETF購入がリスクプレミアムへの働きかけを意図するものであったのなら、その目的はETFの買い入れという手段でしか実現できないわけではない。ETFを運用する投資信託会社と投資先企業との対話を促進することによっても、リスクプレミアムは低減するはずである。
日銀のETF保有とガバナンスの関係については、いささか複雑な断面もある。近年、日銀の持つETFが企業統治をむしろ改善した可能性を示す研究成果もいくつか報じられている。
たとえば、崔真淑氏と京都大学の山田和郎准教授の共同研究は、日銀の間接保有比率が上昇する企業において、買収防衛策の撤廃、社外・女性取締役の増加、配当性向の改善といったガバナンス強化に結びつく傾向を認めている。また、日本経済研究センター(JCER)の左三川郁子氏らも、日銀間接保有比率が5%以上の企業では、配当性向や総還元性向が5%未満の企業より有意に高いという実証結果を示した。
導入から10年…コーポレートガバナンス・コードの成果は
この背景には、ETFが“無色透明で形式主義的な議決”を行うという性格がある。すなわち、ETF運用会社は恣意性を排した基準に基づいて株主総会での賛否を決定するため、企業は「説明できなければ否決される」といったプレッシャーを感じるようになる。形式的でなく、背景やストーリーを説明できるかが問われる構造になっていたのである。
実際、半導体検査装置大手アドバンテストは、株主総会の議決基準日を変更し、投資家に対して有価証券報告書などの開示タイミングを整備することでIR強化に乗り出した。これは日銀の影響なしには起こりにくい変化だ。日銀は静かだが、確かに“物言っていた”とも言える。
このように、日銀ETFによる“無言の圧力”が、企業の統治改善に一定の作用を及ぼしていた可能性はおおいにある。2025年は、コーポレートガバナンス・コードが初導入されてからちょうど10年の節目だ。これまで日本企業は、社外取締役比率、女性取締役の登用、取締役会の多様性など、数値目標や体裁を整える方向で努力してきた。しかしその多くは形式の踏襲であり、実質的な変化には至っていないという批判も根強い。
その中で、日本取締役協会会長・冨山和彦氏が提唱した次の発言は示唆的である。
「(ガバナンス改革の基本発想を)『コンプライ・オア・エクスプレイン』(順守か説明を)ではなくて 『エクスプレイン・オア・コンプライ』(説明か順守を)にしてはどうか」
企業に突きつけられる「5つのガバナンス課題」
すなわち、まず説明責任を前提とし、その説明に合理性と説得力があれば、必ずしも形式的順守だけを追求しなくてもよいという考え方だ。この発想の転換は、今日の日本企業にとって不可避なステップである。株主とのコミュニケーション、事業戦略と統治構造の整合性、投資先に対する回収可能性やリスク説明――こうした説明力こそ、今後のガバナンスの本質になる。
これからの日本企業にとって、日銀ETFの売却は“追い風”でも“逆風”でもありうる。企業は、次のような視点で対応を迫られるだろう。
1. 売却圧力に耐える収益力の強化
日銀が売り出すペースを想定すれば、市場での株価下落リスクは避けられない。企業は収益性を高め、安定的なキャッシュ創出力を持つ必要性が高まる。
2. 説明責任とIR強化
単なる数値目標をなぞるだけでは効果は薄い。最重要なのは、投資家に対しストーリーを語り、合理的な説明をする能力である。
3. 統治制度そのものの見直し
社外取締役の独立性、取締役会の実効性、会議の運営、内部統制、役員報酬制度など、実態と整合する統治構造を築くことが不可欠だ。
4. 資本政策の柔軟性
株式分割、株主優待、自己株買い、配当政策など、資本政策を市場環境・需給に合わせて見直す能力が試される。
5. 中期経営計画と資本市場シナリオ統合
企業戦略と資本市場との接点を強め、ガバナンス改革が成長戦略と不可分になるような経営設計を志向すべきだ。
日銀がETFの売主に転じたということは、長らく続いた「日銀の買い支え」の支配的構図が崩れつつあることを意味する。企業側は、これまでの「日銀」という影の支柱に甘えず、自らのガバナンスと説明責任をもって市場に向き合うよう要求されている。
いずれにせよ、企業は買われるためのガバナンスにいっそう力を入れなければならない。