くだらねえ揚げ足取り…「馬車馬のように働く派」「ワークライバランス派」実証データではどっちが正しいか…経済誌元編集長が分析

石破茂総理の退任により開かれた自民党総裁選で高市早苗氏が女性として初めて選出された。そして、選出直後に語った言葉が若いを呼んでいる。「だって今、人数少ないですし、もう全員に働いていただきます。馬車馬のように働いていただきます。わたくし自身もワークライフバランスという言葉を捨てます。働いて働いて働いて働いて働いてまいります」。この発言に関して国民の意見は割れている。そんな中で共産党の志位和夫議長「『全員に馬車馬のように働いてもらう』にものけぞった。人間は馬ではない。公党の党首が使ってよい言葉とは思えない」と批判した。
他にも翻訳家の鴻巣友季子氏は「この国初の女性党首とやらがワークライフバランスを捨てるなんて言うなよ。昭和に逆戻りですか?」と述べた。だが、こうした批判に「くだらねえ揚げ足取りしてんじゃねえよ」という批判もみられた。
経済誌プレジデントの元編集長で作家の小倉健一氏は「言葉の文脈を都合よく切り取り、レッテルを貼って他者を攻撃する風潮は、社会から建設的な議論を奪い去る」と指摘する。小倉氏が解説するーー。
目次
トップが持続可能な働き方を示すべき、なのか
高市早苗氏が自民党の新総裁に選出された直後、決意を語った。「国を立て直すため、全員に馬車馬のように働いてもらう、自分自身もワークライフバランスという言葉は捨てる」と。
これから日本国の首相となる人物としての覚悟表明は、瞬く間に社会の一部から激しい拒絶反応を引き起こした。過労死問題に取り組む弁護団は「過重労働を強要する精神主義だ」と抗議声明を発表し、あるフジテレビアナウンサーは「時代に逆行していてガクッときた」と番組でコメントした。国家の危機に際してリーダーが示した自己犠牲の誓いは、個人の働き方という矮小な次元に引きずり下ろされ、感情的な言葉で断罪された。
この風潮に乗り、日本経済新聞がある記事を掲載した。「高市新総裁に私が望むこと」と題された企画である。この記事は、3人の「識者」に意見を聞く体裁をとりながら、その実態は高市氏への批判を一方的に展開する場を提供していた。
中でも、市民団体代表の天野妙氏の言説は、この記事が抱える問題点を象徴している。天野氏は高市氏の発言を「何を言っているのかと仰天した」と一蹴し、「トップが持続可能な働き方を示すべきだ」と主張した。
宰相の覚悟という主題を、一個人のライフスタイル論へすり替える操作
この記事は、宰相の覚悟という主題を、一個人のライフスタイル論へとすり替える操作を見事にやってのけたのである。
そもそも、国家のリーダーシップと一個人のワークライフバランスを同じ天秤にかける思考自体が、根本的な誤謬を抱えている。例えば、大地震が発生し、多くの人命が危険に晒されている状況を想像してほしい。現場の対策本部長が「部下の健康が第一だから、今日は定時で引き上げよう」と指示すれば、その人物は指揮官失格の烙印を押されるだろう。国難や組織の存亡がかかる非常時において、リーダーが私事をなげうって職務に専念するのは、逃れられない責務である。
英国を第二次世界大戦の勝利に導いたチャーチルも、鉄の意志で経済再建を断行したサッチャーも、快適なワークライフバランスの中から偉業を成し遂げたわけではない。高市氏の発言は、あくまで「私自身も」という主語で語られた、一身を捧げる覚悟の表明に過ぎない。この個人的な決意を、国民全体への長時間労働の強要だと解釈するのは、言葉の文脈を意図的に捻じ曲げる悪質なレトリックである。危機管理の要諦を理解せず、平時の感覚で宰相の言動を裁断する態度は、国家の舵取りを誤らせる危険な兆候だ。
現実離れした理想論に終始する天野氏
天野氏の主張は、経済政策の領域においても、現実離れした理想論に終始する。天野氏は、人々が副業をするのは基本給と残業代が安いからだと断定し、労働時間の規制緩和ではなく、基本給の引き上げと残業代の1.5倍化を断行すべきだと説く。
この主張は、経済の基本原則を全く理解していない。町にあるパン屋の店主が、政府から「パンの値段は変えるのは難しくても、従業員の時給を明日から1.5倍にしなさい」と命令されたらどうなるか。店主は、人を減らして自分の労働時間を増やすか、採算が合わずに店を畳むかの二択を迫られるだろう。企業にとって人件費は、事業を継続するための重要なコストである。生産性の向上を伴わない強制的な賃上げは、企業の経営を圧迫し、結果として雇用機会そのものを奪う。
経済協力開発機構(OECD)のデータ分析などを手掛ける専門家、森川正之氏の研究によれば、日本の労働者の賃金はマクロ経済的に見れば、その生産性とほぼ見合った水準にある。
ジェンダーギャップ指数の問題点
つまり、生産性を度外視して「賃金が不当に安い」と断じる天野氏の前提自体が、客観的なデータによって否定されている。耳に心地よい賃上げ論は、その裏側で失業という痛みを伴う劇薬になりかねない。天野氏が称賛する欧州型の短時間労働や長期育休制度も、経済の停滞や高い失業率という負の側面を併せ持つ。他国の制度の美しい部分だけを切り貼りして見せる手法は、誠実な政策提言とは呼べない。
天野氏の主張の根幹を支えるもう一つの柱が、世界経済フォーラムが発表するジェンダー・ギャップ指数である。日本はこの指数で世界118位と低迷しており、この事実をもって高市氏の政策に「ジェンダー平等が進むのか危惧している」と述べる。このジェンダー・ギャップ指数は、一見すると科学的で客観的な指標のように見える。しかし、その内実を精査すれば、深刻な構造的欠陥を抱えていることがわかる。この指数は、身長を測るための物差しを自称しながら、なぜか150cmまでの目盛りしかなく、ついでに体重や視力のデータまでごちゃ混ぜにして「身長スコア」を算出しているような代物だ。
常識とはかけ離れた倒錯した順位
具体的には、この指数は男性が社会的に不利な立場に置かれている指標、例えば、女性より短い平均寿命、高い自殺率、危険な職業への高い従事率といったデータを完全に無視している。教育や健康の分野で、女性の指標が男性を上回ったとしても、それは「平等が達成された」と見なされるだけで、スコアには加算されない。この偏った設計の結果、国民全体の生活水準が低い発展途上国が、豊かで機会の多い先進国よりも上位にランク付けされるという、常識とはかけ離れた倒錯した順位が生まれる。このような信頼性の低い指標を錦の御旗のように掲げ、自らの政治的主張を正当化する行為は、知的な欺瞞以外の何物でもない。
働くほどに仕事の成果は出る。条件付きで馬車馬は正解となる。
日本の製造業で働く2,093人を対象に、どれくらい長く働いているか、どれくらい仕事にやる気や熱意を感じているか、そして自分の仕事の成果をどの程度出せていると思うかを調べた研究がある(「労働時間、ワーク・エンゲージメント、労働生産性の関係:J-HOPE研究による横断調査」、2019年)。
その結果、働く時間が長い人ほど「仕事の成果が高い」と答える傾向が見られた。つまり、長く働く人のほうが生産性が高かった。さらに「仕事への熱意(ワーク・エンゲージメント)」の度合いを一緒に考えると、今度は長時間労働の効果はほとんど消えてしまった。仕事への熱意が強い人は、働く時間が短くても高い生産性を示していたが、熱意が低い人は長く働いても成果が上がらない傾向があった。
仕事への熱意が高い人たちは、1週間の労働時間が40時間から50時間程度の範囲で最も高い成果を報告していた。ただ50時間を超えても生産性は上がらず、むしろ疲労や集中力の低下が影響して成果が落ちる傾向が見られた。「週40時間」が日本の労働基準法で定められた法定労働時間の上限であることから、やはり熱意のある人にはもう少し働いてもらった方が良さそうである。
この研究は、数字とデータをもとにした分析であり、個人の感想ではない。生産性を上げたいなら、仕事への熱意ややりがいを保つことが重要だとわかった。実証データをもとにした研究からは、馬車馬のように働くことは、仕事への熱意が高く、自分の仕事を誇りに思えるときに正解となる。
複雑な問題を単純な善悪二元論に落とし込み、感情に訴えかける言説
問題の根源は、天野氏一個人の見解に留まらない。より深刻なのは、こうした実証性を欠いた情緒的な言説を、何ら検証することなく「識者の意見」として社会に発信した日本経済新聞の編集姿勢である。経済の動向を客観的なデータに基づいて分析し、読者に冷静な判断材料を提供することが、経済紙に課せられた使命のはずだ。
経済原則を無視した賃金論や、統計的欠陥が指摘される指数を根拠とした社会批評を無批判に掲載する態度は、その使命を自ら放棄するに等しい。特定のイデオロギーに沿った人物ばかりを選んで意見を述べさせ、異論や反論を掲載しない紙面づくりは、もはや報道ではなく、特定の価値観を読者に植え付けようとするプロパガンダである。それは、自社の読者が持つ知性や判断力を根本から見下している証拠でもある。
我々は今、困難な現実に正面から向き合う覚悟を問われている。国家の再建という重責を前に、私生活の犠牲を厭わないと宣言したリーダーの言葉。統計データに基づき、耳に痛い経済の真実を淡々と語る研究者の分析。これらと対極にあるのが、心地よい理想を語り、複雑な問題を単純な善悪二元論に落とし込み、感情に訴えかける言説である。言葉の文脈を都合よく切り取り、レッテルを貼って他者を攻撃する風潮は、社会から建設的な議論を奪い去る。経済の専門紙が、データに基づかない感情論に紙面を明け渡すという現状は、社会全体の知的体力が衰弱していることの現れだ。必要なのは、理想論に酔うことではない。客観的な事実とデータという固い地面に足をつけ、そこから一歩ずつ現実を変えていく、地道で知的な勇気なのである。