マスコミの怠慢…金子恵美氏、田﨑史郎氏の「泉氏上げ高市氏下ろし発言」に苦言「放送法上の疑義あり」世論を誘導しすぎの声

元自民党衆院議員の金子恵美氏が、自身のYouTube番組で政治ジャーナリスト田﨑史郎氏の報道姿勢に苦言を呈した。金子氏は「小泉進次郎氏を持ち上げ、高市早苗氏を過度に下げた」と語り、報道が事実を伝えるのではなく世論を方向づけようとしたのではないかと指摘した。この発言は、テレビ報道そのものに対する問いかけとして大きく注目された。放送法に詳しい、元NHK党公設秘書でコラムニストの村上ゆかり氏が解説する――。
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放送法第4条「政治的に公平であること」
「コメンテーター発言」で問題視された例はこれまでも存在する。例えば、2017年1月に放送されたMXテレビの『ニュース女子』沖縄基地特集や、2022年9月に放送された玉川徹氏の国葬に関する断定発言がある。
『ニュース女子』では、抗議活動を取材せずに批判的描写を重ねたり、「日当」という表現を裏付け取材せず用いたりする編集がBPOによって「重大な放送倫理違反」と判断された。番組は後に検証番組を制作・放送し、局側は見解表明と謝罪を行ったが、視聴者に向けた明確な訂正報道を大々的に行ったとは言い難い。玉川徹氏は国葬の弔辞演出に「電通が入っている」と発言し、これは事実でないとの認識が広がると、翌日番組で「事実ではありませんでした」と訂正・謝罪した。テレビ朝日は玉川氏を10日間謹慎処分とし、社長らは謝罪声明を出した。その後、番組復帰直後に再謝罪も行ったが、その訂正と謝罪は番組内処理にとどまり、放送全体にわたる検証報道としての訂正報道は限定的であったという指摘が残る。
今回、金子氏が指摘した「小泉氏上げ/高市氏下ろし」という論調そのものについて、現時点で番組または局による編集判断の検証や論調の是正に関する説明は現時点で確認できない。日本のマスメディアに対し国民の不信が広がっている主な要因は、これらコメンテーター個々人の発言そのものよりも、その後の放送事業者の訂正対応等によるものではないかと筆者は考えている。
放送法第4条には、放送事業者が守るべき四つの原則「公安と善良な風俗を害しないこと」「政治的に公平であること」「報道は事実をまげないですること」「意見が対立している問題についてはできるだけ多くの角度から論点を明らかにすること」が定められている。テレビ等の出演時によるコメンテーターの発言は、一見すると個人の見解であり、言論の自由の範囲で問題ないようにも思える。
BPO「訂正せず放送した局の責任は免れない」
しかし、テレビというメディアに出演中の発言は、法的には放送事業者に編集責任が問われることになる。出演者が誤った情報や一方的な意見を述べ、それを補足または訂正せずに放送した場合、その責任は局側、つまり放送事業者にある。放送倫理・番組向上機構(BPO)は「コメンテーターが誤った事実や一方的な意見を述べた場合、それを訂正せず放送した局の責任は免れない」と明記している(BPO放送倫理検証委員会決定第38号、2018年)。
視聴者の多くはテレビ報道を信頼しており、発言にはその根拠と検証が求められる。ひとたび誤った情報が放送されるとその修正は難しい。総務省は2016年に「一つの番組であっても、極端な場合には政治的公平を欠くと判断される」と統一見解を出している。特定の見解だけが繰り返されれば、視聴者はそれを事実と錯覚し、メディアの信頼性は急速に低下する。金子氏の指摘は個人の批判を超えた問題提起である。公平性を失った報道は、政府による検閲よりも深刻な「自己検閲(self-censorship)」を生む。
BPO「誤りを認めない姿勢が信頼を失う要因」
BPOの2023年報告では「視聴者の信頼を失う最大の要因は、誤りを認めない姿勢にある」と述べた。つまりマスメディアは、誤報そのものよりも、訂正対応の遅れが信頼を損なうということだ。
マスメディアの信頼性を担保するには、情報の正確性よりも情報の自由と透明性が重要である。ハーバード大学の研究では、「透明性が高い報道機関は、誤報が発生しても信頼を維持しやすい」と報告された〈Harvard Kennedy School, 2022〉。透明性とは、取材の過程、情報源の開示、訂正の手続きが明確であることを指す。つまり、自由を守る最良の方法は、隠さないことにある。訂正を恐れず、公に説明する報道機関ほど国民から信頼される。これに対し、日本の放送文化は長く「内部の信頼」で成り立ってきた。記者と官僚、テレビ局とスポンサーの間に形成された不透明な慣行が、報道の枠を固定してきた。この構造が時に「自己検閲」を生み、自由な報道を妨げている可能性がある。しかし、本来報道とは、取材対象者やスポンサーではなく視聴者との信頼を最も優先すべきであり、国家と業界の距離を取ることが、本来の報道の姿に近いのではないか。
日本では前述したとおり、問題発言等があっても謝罪放送は少なく、訂正内容も短いテロップで済まされることが多い。
コメンテーターの問題というより、マスメディアの怠慢
報道の自由を支えるのは「責任」と「検証」である。放送の現場で働く人々が自らの言葉に責任を持ち、根拠を示すことが自由の条件である。前述した金子氏の指摘のように、テレビのコメンテーターが度々コメント内容で炎上するのは、コメンテーターの問題というより、マスメディア自身の放送事業者としての怠慢によるものではないか。大きな権力ともいえるメディアが情報の独占や不透明さを続け、自らの検証を怠ることは、国家による検閲行為と同程度に危険である。報道機関が自らを検証できないなら、国民が検証するしかない。SNSやインターネット上の言論空間が、報道の監視役として重要になる理由はここにある。
SNSの最大の特徴は、情報の流れが一方向ではなく双方向であることだ。誤報が拡散すると、ネット上で即座に検証が行われる。アメリカの研究〈Mosleh et al., Nature Human Behaviour, 2024〉は、SNSの「Community Notes」機能が誤情報の拡散を抑える効果を確認した。研究によると、事実誤認を含む投稿に注釈がつくと、リポスト数は平均で46%減少し、閲覧数も大幅に下がった。注釈を追加する仕組みが、誤情報の拡散を抑える有効な方法になることが示された。誤った情報を削除するよりも、根拠を示して説明する方が信頼されやすい。SNSは訂正を恐れず、透明な対話を生む空間になりつつある。
SNSは完全ではないが、報道を補う新しい公共空間になり得る
SNSはメリットばかりではない。例えば、匿名で発信できるSNSが多いことから、匿名の発信者が誤った情報を拡散しても、責任を取らないことが多い。また、SNSでは自分の考えに近い情報ばかりを選びやすく、異なる意見を避ける傾向(エコーチェンバー)がある。異なる考えに触れない環境では、社会が分断されやすくなる。
情報を受け取る側である我々は、その情報を鵜呑みにせず、検証していかなければならない。誤った情報を見つけたら、感情的に反応するのではなく、一次資料を確認する習慣を持つ。SNSの注釈機能や国民一人ひとりによるファクトチェックは、報道の健全性を保つ力になる。ハーバード大学の研究〈Harvard Kennedy School, 2022〉も「市民が検証に参加する社会では、報道の信頼度が高く維持される」と報告している。
SNSは決して完全ではないが、報道を補う新しい公共空間になり得る。批判が可視化されることで、権力やメディアが自らの誤りに気づくきっかけを得られるかもしれない。
時事通信カメラマンの「支持率下げてやる」発言
マスメディアが誤情報等の訂正を遅らせても、SNS上で市民が指摘すればすぐに拡散され、社会全体で誤りを正す流れが生まれる。国民も互いを監視することで公共性を保つことができる。インターネット空間で起こる批判は報道への圧力ではなく、その多くは社会の健全な反応でもある。誤報を恐れず、誠実に訂正する報道だけが、この時代に信頼を得られる。インターネットにおける言論の自由は、放送の信頼を回復する新しい希望にもなる。
最近では、自民党本部で高市早苗総裁の取材待機中に報道陣の一部が「支持率下げてやる」と発言し、その音声がSNSで拡散され大炎上したことを受け、時事通信社が同社のカメラマンを厳重注意した事例も起きた。これまで報じられなかった報道側の姿勢が可視化される時代に入り、メディアは説明責任と自律的改革を迫られているのだ。マスメディアはこれまでの閉鎖的な空間で行われる慣行や不透明なやり方ではもう社会に通用しないことにそろそろ気づくべきだ。取材の過程や判断の理由を公開し、視聴者に見える形で責任を果たし、社会から信頼を得ていくことで自らの影響力を担保する時代である。透明性は信頼の源になり、誠実な報道だけが、社会の支持を得る。
「報道の自由」の未来は、恐れではなく誠実さによって築かれる。健全な言論の自由と民主主義社会を築くために、現状に目を背けず、視聴者、国民に対し誠実な姿勢でその職責を果たすマスメディアが少しでも多くなることを、筆者は強く期待したい。