「楽な仕事」三原じゅん子の“最悪30秒会見”に国民激怒…「7兆円の予算」で報告なし!「独身税」「不公平」「中抜き」地獄のこども家庭庁

2025年10月、内閣府特命担当大臣としてこども家庭庁を所管していた三原じゅん子氏が行った閣議後会見が大きな話題となった。会見時間はわずか30秒ほどで、発言は「本日は特に報告事項はございません」の一言のみで、さらに記者から質問も出ず、そのまま終了した。映像が公開されるとSNSは「7兆円も予算がある庁の大臣が何も言わない」「大臣不要」といった批判であふれた。政治に詳しいコラムニストの村上ゆかり氏が解説していく――。
目次
年間予算は約7兆3千億円
こども家庭庁の年間予算は約7兆3千億円であり、子ども・子育て支援金制度、保育・学童支援、若者活躍、男女共同参画など広範な政策を扱う。国民生活に密接な分野を担う庁の大臣が「報告なし」と言えば、政策停滞の象徴に見えるのも当然である。SNSでは「報告がないという報告が最大の問題」「楽な仕事」と揶揄する声も多かった。
この会見は形式上、閣議後の定例会見である。閣議後会見に法的義務はなく、大臣が希望すれば実施し、必要がなければ省略できる。報告事項がなければ開催しない判断も可能だった。報告がないならやらなければよかったのではないか。
あえて「報告なし会見」を行った理由は、「慣例の維持」と「官邸統制」が考えられる。閣議後会見はすべての閣僚が出席するのが慣習であり、一人だけ欠席すると「なぜ出ないのか」ということになる。また、高市内閣では閣僚の独自行動を避け、発言内容や露出を一元管理する方針が強まっていた。特に炎上リスクの高いテーマを扱う省庁では、事務方が「発表事項がなくても出席してください」と要請することも考えられる。会見を行うこと自体が「官邸方針への忠実さ」を示す行為になる。
行政学ではこうした現象を「儀礼的説明責任」と呼び、形式上は説明しているが、実質的には何も伝えないという現象のことを指す。三原氏の30秒会見は説明さえしていないが、形式だけ整えた。しかし、国民は沈黙を「無関心」と受け取り、国民の不信は政策そのものよりも、大臣の態度に向かっていった。
「もう辞めるからやる気がないのでは」
批判の中には「もう辞めるからやる気がないのでは」といった声もある。だが、必ずしもそうではなく、筆者は「沈黙以外の選択肢がなかったのではないか」と考える。
考えてみれば当たり前だが、こども家庭庁では実務が進んでおり、報告することがないとは考えにくく、報告されなかった可能性が高い。報告しなかった理由はいくつか考えられるが、特に炎上回避が大きかったのではないかという見方がある。
「独身税」「不公平」「中抜き」
こども家庭庁は設立当初から批判が相次いでいた。こども子育て支援金制度をめぐり「独身税」「不公平」「中抜き」などの言葉がSNSを席巻した。三原氏等が「余計なことを言えば燃える」と判断し、炎上を避けるための沈黙を選択したのではないか、という見方だ。
しかし結果として、沈黙そのものが炎上した。炎上を恐れて沈黙することは、一見安全に見える。しかし、沈黙は必ずしも「賢明な判断」ではなく、沈黙が批判を和らげるどころか、逆に不信を深める場合が多い。これらを踏まえると、三原大臣が沈黙を選んだ背景には、単なる炎上回避以上の事情があると読むべきではないか。
三原氏は、就任以来、批判を受けるたびにSNSで反論を行ってきた。こども家庭庁が「中抜き」だと批判されたときには、外部委託費の比較表を投稿し、「0.06%で最も少ない」と主張した。支援金制度が「独身税」と呼ばれたときには、「誤った言い換え」と否定した。どの投稿も庁の立場を守ろうとする意図を感じる投稿であり、「国民の疑問に答える説明」というより「批判に反発する弁明」に見えた。結果として、発信すればするほど炎上が拡大した。批判に対して「誤解だ」「外国勢力の影響かもしれない」と返したこともあり、国民の不信を逆なでした。SNS上では、「また言い訳」「批判を聞かない人」という印象が定着した。発信が防御的になればなるほど、説明の余地が狭まり、最終的に「何を言っても炎上する」状態に陥った。
説明を「戦う場」にしてしまったことが最大の原因
その結果三原氏は、「沈黙するしかない」という最終段階に追い込まれた。沈黙は戦略ではなく、結果だったのではないか。国民との対話が断絶した状態での会見は、もはや説明の場ではなくなり、形式的な儀式のみが残った。これは、批判に対して防御的に反応し、説明を「戦う場」にしてしまったことが最大の原因である。
本来、炎上とは国民の不安や不信が表面化した状態であり、それを丁寧に受け止めることが政治家の役割である。だが、三原氏は批判を「敵意」と受け取り、理解を深める機会を失った。
MITの研究(Vosoughiら、Science 2018)では、「感情を伴う情報は真実よりも70%速く拡散する」と指摘されている。だからこそ、政治家は感情を受け止める言葉を持たなければならない。
「もっと本質的な政策を行ってほしい」
数字ではなく、共感で応答する姿勢が信頼の前提である。三原氏の場合、正確なデータを出しても共感を欠いたため、説明が通じなくなった。
沈黙は安全ではない。しかし、それ以上に危険なのは「言葉の信頼を失うこと」である。信頼を失った政治家は、何を言っても疑われ、何も言わなくても批判される。沈黙の背景には、発信の失敗と信頼の喪失がある。三原氏の30秒会見は、政治家としての「説明の終点」を示す出来事だった。
三原氏は21日の退任会見で繰り返し「現場主義」を口にした。だが、その「現場」とは保育施設、放課後児童クラブ、子ども食堂、NPO法人、児童相談所など、制度を支える側の現場であった。しかし、国民が求めていた現場とは、子どもを預けられずに困っている親、複雑な申請書に悩む共働き世帯、支援の仕組みを理解できない保護者、学校に行けない子どもを支える家庭のような、生活の現場である。本来政治が向き合うべきなのは、制度を運営する側ではなく、制度を受ける側の声だ。
三原氏の「現場主義」は、政策の執行を確認する意味では正しかったが、政策の実感を確かめる姿勢には届いていなかった。制度の現場を見に行くことと、暮らしの現場を感じ取ることは違う。庁が掲げる「こどもまんなか社会」の理念は、現実には「制度まんなか」になっていたのではないか。三原氏の退任会見は、形式としては現場への感謝を示すものだったが、聞き手が感じたのは「国民の現場」との乖離であり、このズレこそが、こども家庭庁の課題そのものではないか。
こども家庭庁に対する批判の奥には、「もっと本質的な政策を行ってほしい」「もっと取組みそのものをシンプルにしてほしい」「ちゃんと説明してほしい」という素朴な願いがあるのだ。
制度を整理して、生活を軽くすること
国民が求めているのは、新しい制度ではなく、分かりやすく、迷わない仕組みである。子育て世帯に対する補助金や支援策が増えるほど、ただでさえ忙しい子育て世帯にとってそれらを探すのも申請するのも、届いた案内文書を確認するひと手間さえも負担になるのだ。そもそも、こども家庭庁のサイトに長い支援内容の一覧があること自体、制度が複雑になりすぎている何よりの証左ではないか。
支援の形を見直すなら、まず簡単で、手間のかからない制度にすることが第一歩である。税金や社会保険料の削減、負担の軽減という形で“手取り”を増やせば、手続きに時間を取られずにすむ。そして、“手間の削減”つまり時間の自由も極めて重要だ。多くの子育て世帯は時間が圧倒的に足りない。こども家庭庁がこれから果たすべき役割は、支援を増やすことではない。制度を整理して、生活を軽くすることである。税や社会制度を通じて自動的に支援が届き、働き方の自由が広がり、学校が安心できる場所になる。これが国民の描く理想に近いのではないか。
家庭庁そのものに成果指標(KGI・KPI)を
こども家庭庁は、子どもや家庭に関する政策をまとめ、縦割りをなくす目的でつくられた。内閣府・厚労省・文科省の一部を統合し、家庭、教育、福祉をつなげる役割を持つ。だが、発足から一年が経っても、批判する国民の多くは「何が変わったのか分からない」と感じ、「庁は本当に必要なのか」「税金の使い道が見えない」といった声が広がっている。
庁が批判を受けるのは、存在そのものの意味が国民に伝わっていないからである。こども家庭庁が「支援を足す庁」のままでは、役所の看板が変わっただけである。国民が求めているのは、これ以上支援を増やすことではなく、今複雑に存在する様々な制度を整理し、見直すこと、そして誰が見てもわかるようにすることではないか。そして、こども家庭庁は、自らの存在意義を明確にし、こども家庭庁そのものに成果指標(KGI・KPI)を置くべきではないか。成果を測る仕組みを自ら定め検証することが、信頼を回復する第一歩になる。成果を示すには、説明責任が欠かせない。国民は完璧な政治家ではなく、対話でき誠実に向き合ってくれる政治家を望んでいる。
三原氏は大臣に就任したとき、「子どもたちの未来を守りたい」と語っていた。だが、時間がたつにつれて、その方向性は見えなくなり、退任直前に「沈黙の会見」が生まれた。この沈黙を選択せざるを得なくなった背景には、様々な教訓がある。後任である黄川田大臣が真に国民と向き合い、説明責任を果たせば、信頼回復につながるだろう。新大臣が真の“現場主義”のもと国民との対話を重ね、こども家庭庁が所管する様々な政策の抜本的な見直しを断行してくれることを、子育て世帯でもある筆者は心から願っている。