菊地成孔「テレビはなくならないし終わらない」“メディア不滅の法則”…すべては人間の終焉幻想である

「テレビの終焉」は、もはやありふれた話題だ。視聴率の低迷、広告収入の減少、ネット配信の台頭。テレビはもう役割を終えつつあるのではないか――そんな論調は、数十年前から繰り返されてきた。だが、本当にそうなのだろうか? テレビとは、そしてメディアとは、そもそも「終わる」ものなのか?この問いに対し、菊地成孔氏が独自の視点で切り込んだ。みんかぶプレミアム特集「テレビ 終わりの始まり」第2回。
目次
人類は一度作ったテクノロジーやメディアをなくしたことがほぼない
最初に結論を申しますと、テレビは、テレビ局もテレビ受像機も含め、なくならないし終わらないと思います。なぜなら、人類は一度作ったテクノロジーやメディアをなくしたことがほぼないからです。紙幣も無くなりませんし、レーザーディスクも、SACDも無くなりません。然るにテロリズムも戦争も無くなりません。核兵器も犯罪者も無くなりません。これはニヒリズムではなくてですね、「作ったものは無くならないイズム」とでもいいましょうか。
僕は因みに、そろそろ62歳ですが、子供の頃から「もう、あれは無くなる」「もう、あれは終わりだ」とさまざまなことが、そうだなあ1万個ぐらい槍玉にあがり、「へー、本当に無くなちゃうのかな?」と思っていたら、一個も無くなりませんでした。ジャズ・ミュージシャンなので、生まれた時から、ついこないだまで「ジャズは死んだ」「ジャズは終わった」「ジャズは死なない」「ジャズは終わらない」とかみんながずーーーーっといい続けてるんで、「もうそれ、よくない?」と思っています。
「あれは無くなる」という話が人は大好き
と、遡るに、テレビで見たり、図書館で調べたりしていると、どうやら僕が生まれる前の過去もそうだったようで、「もう、あれは無くなる」「もう、あれは終わりだ」という話は、どうやら人類は大好きで、それはおそらく、自分の命が有限で、そこに零落や破滅のイメージを重ね合わせ、本当の不安から逃れているわけです。
「死はもう終わりだ=人間は死ななくなる」と唱えた人は、宗教の教祖とか、仕事上仕方なく言う人以外、ほとんど見たことがなく(頭のおかしいお医者さんとかだったと記憶していますが)、また、死はなくなりません。
「死」の前菜みたいな「老」もかなり嫌なのでしょうね。テレビは、「覇権」のようなものは、もう失っていると思いますが(ですから、例えば<地上波が引退する日><テレビが隠居になる日>というタイトルなら、そこからが「老いたるもの」の醍醐味のスタートですが)。「老」は「死」ほどガチじゃねえから、好きな人もいて、それがどのくらい嫌かどうか、以下、簡単なチェッカーズを作ってみました。ちっちゃなころから悪ガキで~。
質問)
・あなたにとって<テレビが終わる日がある世界>と<テレビが終わる日がない世界>と、どっちがポジティヴですか?
・あなたにとって<ラジオが終わる日がある世界>と<ラジオが終わる日がない世界>と、どっちがポジティヴですか?
・あなたにとって<SNSが終わる日がある世界>と<SNSがまだある日がない世界>と、どっちがポジティヴですか?
・あなたにとって<世界が終わる日がある世界と>と<世界が終わる日がない世界>と、どっちがポジティヴですか?
と、この質問表が無限に近いことはお分かりでしょう。<>の中に何を入れても良いわけです。とんかつソースでもテクノバタリアンでもなんでも良いわけです。結果、破滅の不安や死の恐怖だけが、あなたの心を左右している、ということが、何十問か設問し、回答した後に、いやでも明らかになると思います。
スマホを持っていない。それでも困ることはない
突然ですが僕はスマホを持っていません。年々不便が微増していますが、基本的に、ガチで困ることは一つもないです。完全スマホ注文のお店にも人間が働いていて、「スマホを持ってないので口頭の注文でお願いします」といって、「出ていけ」といわれたことはありません。タクシーも電話で呼べますし、知識や教養は書籍で得ますし、何せテレビを見ているので。テレビを見ずにネットだけで生きている人と、情報量が違うと感じることも全くないです。
ただ、僕はテレビ(だけではなく、あらゆるもの)を心から信じたことは一度もありません、全てはサイコロジカルゲームだと、ケネディ暗殺の臨時ニュースから、直感的に信じているまま、現在まで変わってません。コレはニヒリズムではなくてですね、「博愛主義」、さらには「フロイド主義」に近いわけです。