カルバン・クラインとジョングク・・・その美と表現の挑発性、そして愛

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「過度の装飾や大げさなデザインは好まない」
カルバン・クラインには二つの選択肢がある。
シルエットのための服と、生活のための服。
かつてカルバン・クラインは言った。
「シンプルで着心地がよくてスタイリッシュな服であるべき。しかし過度の装飾や大げさなデザインは好まない」と。
パターンのカルバン・クライン、というほどに体型を映し出す鏡、それがカルバン・クラインのデザインだ。
シルエットのための服ーーまさにジョングクの肉体美はカルバン・クラインのアンバサダーにふさわしい。実際、2023年秋キャンペーンでは約20億円のメディアインパクトバリューとなった。
「僕はカルバン・クラインが大好きだった」
もうひとつ、生活のための服。
「僕はカルバン・クラインが大好きだった」
日常でもカルバン・クラインを愛用し続けてきたジョングクの言葉。2024年に就任したカルバン・クラインのクリエイティブディレクター、ヴェロニカ・レオーニは「ミニマリズムと純粋さ」を語る。
そう、ライフスタイルブランドであるからには、特別な人だけが着る服であってはならない。多くが愛し、誰もがその人として着ることのできる服ーー。
これを思想家ロラン・バルトは「服飾と服装」とした。シルエットのための服が服飾とするなら生活のための服は服装である。
〈服飾という事実と服装という事実はときに一致する場合もありうるが、その都度、区別をつけるのは難しくない。たとえば肩幅が着る者の体格にぴったりあっている場合は服装にかかわる事実である。だが肩幅の広さがモードの名において集団によって規定されている場合には、服飾の事実になる〉※
思想としてのシルエット
もっと簡単に言えば美と革新性に挑むような服ーー人によっては「これはいつ誰が着るのだ」と思ってしまうようなエッジの効いた服は「シルエットのための服」ということになる。このシルエットとは単なる外形や輪郭ではない。造形美としてのシルエットであり、服飾という単なる服にとどまらない思想としてのシルエットである。「モードはつねに服飾の事実である」というロラン・バルトの言葉は的確だ。
一方、服装とはロラン・バルトの指す所とするなら「生活のための服」ということになる。人が何かを纏うようになったとき、それは生まれた。生きるための服、たとえば冬物なら「ファッションか、防寒か」ということになる。後者なら「生活のため」が第一に来るだろう。シベリアの凍土でどんな愛らしいPコートをまとっても寒さはしのげないし我慢にも限界があり、こと命の問題になってしまうように。
カルバン・クラインとはそうしたシルエットのための服と、生活のための服との両輪にある。
2024年のジョングクはカルバン・クラインの志向する「シンプル」をまとった。それはジョングクの肉体美をより際立たせる「シンプル」だったが、多くが着ることのできる「シンプル」でもあった。
カルバン・クラインの歴史を紐解けばニューヨークの女性ビジネスマンが仕事に使いやすいと流行した時代を経ている。