【追悼】稲盛和夫「通信料金を安くする」DDIの”無謀な挑戦”を支えた西郷隆盛からの教え
京セラ株式会社創業者の稲盛和夫氏は、同郷の英雄である西郷隆盛を尊敬していることでも知られ、「西郷のような人間が一人でも多く生まれることが、日本をよくすることにつながる」とまで周囲に話していた。西郷の教えは、どのように稲盛氏に影響を与えたのか――。
※本稿は、稲盛和夫監修『無私、利他 ~西郷隆盛の教え~』(プレジデント社)の一部を抜粋・再編集したものです。
鹿児島に根付く武士の魂
鹿児島では昔から、〝士魂〟のような武士の心構えを讃える気風がありました。その代表的な行事が、「妙円寺詣り」です。現在は、毎年十月の第四週に行われています。このお詣りは、1600(慶長5)年に起きた関ヶ原の戦いにおける、島津義弘軍の脱出がきっかけで生まれました。みなさんもよくご存じのように、関ヶ原の戦いは石田三成率いる西軍が、徳川家康率いる東軍に敗れた戦いでした。
西軍の負け戦になり、西軍の兵士たちの多くは後方に退き、敗走しました。しかし、敗走を嫌った島津軍は、東軍が位置する正面の伊勢街道からの撤退を目指しました。前方の敵の大軍の中を突破することを決意したのです。
島津軍は先陣を島津豊久、右備を山田有栄、本陣を義弘という陣立てで突撃しました。旗指物、合印などはすべて捨てた、決死の覚悟での突撃でした。前方の東軍を何とか中央突破すると、関ヶ原から津、伊勢のほうに進み、伊勢の漁師に船をもらい、鹿児島に戻っていきました。薩摩領内にやっとの思いでたどり着いた島津軍は、現在の鹿児島県日置市伊集院町を通って帰ったと言われています。