軍事評論家・小泉悠「ロシア越境攻撃、真の理由」ゼレンスキーがトランプ・ハリスに提示した“戦争終結案”…侵攻で世界経済1070億ドル損失

防衛省は23日午後、ロシア軍の哨戒機1機が北海道礼文島付近で3回、日本の領空を侵犯した。対応した航空自衛隊の戦闘機が「フレア」による警告を実施した。戦争の足音が響き始めている、のだろうか……。
ロシアによるウクライナ侵攻で、日本は経済的に大きな影響を受けた。具体的にはネルギーや原材料価格の高騰につながった。ロイター通信が2024年3月に配信した記事によると、 ロシアによる2022年のウクライナ侵攻以来、ロシアからの撤退によって外国企業が被った評価損と売上高の減少分が1070億ドルに上るという。
そんな中で、8月27日、ウクライナのゼレンスキー大統領はアメリカのハリス副大統領およびトランプ氏に対し、「9月に戦争終結案を示す」と述べた。この中身は一体どのようなものなのか。
東京大学先端科学技術研究センター准教授で気鋭の軍事評論家・小泉悠氏に聞いた。短期連載全2回の第1回。
目次
クルスク攻撃は何のためか
8月6日、ウクライナは国境を接するロシア南西部・クルスク州への越境攻撃を開始し、世界を驚かせました。ただ「この攻撃を仕掛けたところで、最終的にウクライナがロシアに勝つことはできない」ことは、ウクライナのゼレンスキー大統領自身がよくわかっていたはずです。
ではなぜリスクを冒してまで攻撃を仕掛けたのか。まず出てきたのは、「ロシアによる占領地域と、ウクライナによる占領地域を交換する」との意見でした。ただウクライナによる占領面積は小さすぎるので、このアイデアは現実的ではありません。
スジャには天然ガス関連施設がありますから、エネルギー地政学上の思惑もゼロではないかもしれません。ただしわざわざスジャのパイプラインを止めなくても、自国内のパイプラインを止めてしまえばいいだけの話です。
実際、2006年、2009年のエネルギー危機は、ロシアがウクライナへの天然ガス供給を停止したものの、ウクライナが勝手にガスを抜き取ったために起こったと言われています。ですからエネルギーは、あまり大きなドライバーとは言えないでしょう。
となると、この越境攻撃には以上と違う目的があるだろうと考えることが自然です。
一つ考えられるのは、劣勢に陥っている東部戦線からロシア軍の主力部隊をクルスク正面に転用させ、状況の好転を図るという軍事的な目的ですね。
もう一つは、「停戦交渉を見据えた取引材料の一つにしたい」との思惑です。
ロシアとウクライナ、それぞれの狙い
プーチンは6月、交渉を開始する要件として、ロシアが併合したウクライナ東・南部4州からのウクライナ軍の完全撤退や、ウクライナの北大西洋条約機構(NATO)加盟断念を挙げました。ただし、東・南部4州についてはすでにロシアが「併合」を宣言してしまっているわけですから、仮にウクライナが「東・南部4州から軍隊を撤退させる」と言っても、それだけでは交渉材料にはなりません。
結局、プーチンの本当の目的は開戦当時から「ウクライナの中立と非核化」「軍隊の解体と非ナチ化」などにあり、それは一貫して変わりません。つまりプーチンは、ゼレンスキー政権を転覆させてロシアの傀儡政権を立て、軍事的な抵抗力も制約して、ウクライナの主権を奪うことをずっと目指しているのです。
一方、ウクライナ側もこの戦争が始まってからこのかた、「勝利」を強調してきました。8月27日、ゼレンスキーはアメリカのハリス副大統領とトランプ氏に戦争終結案を提示する考えを示しましたが、この終結案の中身はロシアに折れる形で戦争を終えるものにはなっていないはずです。
ただしウクライナとしても、「ロシア軍をウクライナから完全撤退させて、2022年2月の侵攻開始以前、あるいは1991年の独立当時の状況に戻すことは困難である」ことも理解しています。ロシアが併合した土地を奪還することすら難しいことも、よくわかっているでしょう。
ゼレンスキーは「終結案を提示する」とは言いましたが、「すぐに停戦する」と言っているわけではありません。ウクライナが求める「戦争終結」とは、多少の時間はかかったとしても、「どこかの段階でロシアに戦争を諦めさせる」ことだと考えられます。