エコノミスト「イノベーションは負担や苦痛の源泉になる」日本はイノベーションが欠如しているわけではない

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 エコノミストの河野龍太郎氏によれば、イノベーションは一般的に私たちが想像しがちな「豊かさをもたらす」側面のほかに、「大きな負担や苦痛を強いる」側面もあるという。「イノベーションを起こせば豊かになる」と考える日本人に、河野氏が警鐘を鳴らす。全3回中の2回目。

※本稿は『日本経済の死角——収奪的システムを解き明かす』(ちくま新書)から抜粋・再構成したものです。

第1回:ディストピアが見えてきた!いま注目のエコノミスト「人間は退化を始めている」

第3回:エコノミスト「IT革命は実質賃金の上昇をもたらさない」高所得者にのみ富が集中する“収奪的”システム

目次

イノベーションは“豊かさ”と“苦痛”をもたらす

 2024年にノーベル経済学賞に選ばれた3人のうち、経済学者のダロン・アセモグルとサイモン・ジョンソンは、近著『技術革新と不平等の1000年史』において、イノベーションには、大多数の人々に豊かさをもたらすタイプのものと、一部の人々にばかり恩恵が集中して、大多数の人々には、むしろ大きな負担や苦痛を強いるタイプのニつがあると論じています。包摂的なイノベーションと収奪的なイノベーションのニつです。 以下、このニ人の研究者の論考を基に、イノベーションについて考えていきたいと思います。

 日本の経済論壇では、イノベーションを起こせば、イノベーター自身の利益につながるだけでなく、社会全体にも繁栄をもたらす、といった楽観的な見解が少なくありませんが、実はイノベーションのもたらす社会の繁栄は、必ずしも約束されたものではありません。 

 アセモグルとジョンソンは、歴史を振り返り、イノベーションによって、一部の人が多大な恩恵を受け、多くの人が貧しいままであるどころか、より貧しくなるケースの方が多いことを例証しています。ただ、だからといって、イノベーションそのものを否定しているわけではありません。大事なのはイノベーションの方向性と言います。 

 筆者自身も、日本の経済成長が乏しいのは、単にイノベーションが欠如しているから、ということだけではないと考えてきました。2022年に上梓した拙著『成長の臨界—―「飽和資本主義」はどこへ向かうのか』で論じた通り、2000年代のように非正規雇用を活用する収奪的なイノベーションを新たなビジネスモデルとして社会が称賛するなど、イノベーションの方向性を誤ったことが、日本社会を貧しくしてきたのではないでしょうか。 

実質賃金は25年で3%減少

 多くの人がイノベーションをポジティブなものと捉えるのは、それが生産性を引き上げて、人々の実質賃金を増やすと考えるからです。多くの人はそれを当然のように考えることが少なくありませんが、この四半世紀の日本では、生産性が上がっても実質賃金が上がってきませんでした。 

 1998年から2023年までの間に、生産性は累計で30%ほど上昇していますが、実質賃金は横ばいのままです。いや、正確には2021年以降のインフレの影響もあって、1998年対比で2023年の実質賃金は3%程度減少しています。

 生産性が上がり、かつ実質賃金も上昇するというのは、アセモグルとジョンソンによると、「生産性バンドワゴン」が上手く働くケースということになります。 イノベーションを起点に、(限界)生産性が上昇し、その恩恵が起業家や資本家の所得増加だけでなく、周りのすべての人々の所得増加にもつながるということですが、彼らは、イノベーションが起こったからと言って、常に生産性バンドワゴンが作動し始めるとは限らず、むしろ働かないケースが多数であると論じています。

 このバンドワゴンというのは、パレードの先頭を走るきらびやかな飾りを付けたワゴン車(荷車)のことですが、パレードでは、バンドワゴンが動き始めると、皆が連なって、熱狂的な行進が始まります。政治的熱狂や金融バブルのことを、かつては「バンドワゴン効果」などとも呼んでいました。すべてを引っ張って、後続する広範囲の人々の実質賃金の上昇をもたらすから、生産性バンドワゴンと呼ぶわけです。

イノベーションの効果を分けるカギ

 生産性バンドワゴンが起こるかどうか。ここで重要なのは、イノベーションがもたらすのが、「平均生産性」の上昇だけなのか、「限界生産性」も引き上げられるのかです。 少し難しい話なので、ここで改めて詳しく説明しましょう。 

 文字通り、平均生産性は、労働者一人当たりの生み出す平均的な付加価値のことです。 一方、限界生産性とは、労働者が追加的に1人増えた際に、付加価値の生産がどれだけ増えるかを意味します。通常、労働投入量が増えると、限界生産性は低下していくので、追加的な労働需要も低下していきます。しかし、イノベーションによって、限界生産性が高まれば、追加的に生み出される付加価値(儲け)が大きくなるので、経営者はもっと労働投入量を増やそうとします。労働需要が増えるため、実質賃金にも上昇圧力がかかるはずです。

 ここでもし、新しい機械の導入によるイノベーションによって自動化が進み、単に労働者数を削減することが可能になるだけというのであれば、平均生産性は上昇しますが、限界生産性は著しく低下することになります。完全自動化で労働力は一切不要になるかもしれません。そうなると、労働需要は低下するから、実質賃金にはむしろ低下圧力がかかることになります。 

 一方で、機械の導入によって、労働者の能力が強化され、新たな仕事を担うこともできるようになれば、平均生産性が上昇するだけではなく、限界生産性も上昇します。そうなれば、労働需要が増えるので、実質賃金は上昇します。もちろん、あらゆるイノベーションには、多くの場合、自動化の要素が含まれていますが、限界生産性の上昇につながるかどうかは、イノベーションが新たな仕事の拡大と、それに伴う付加価値の増大につながるかどうかに大きく依存します。

 労働者を補完し、その能力を高めようとするタイプのテクノロジーなのか、単なる自動化をもたらすだけなのか、というのが大きな岐路となるわけです。実質賃金の上昇をもたらす「生産性バンドワゴン」効果が働くのは、当然にして前者のみ、ということになります。 

 これで、すべてのイノベーションが実質賃金の上昇につながるわけではないことが、ご理解いただけたと思います。 

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この記事の著者
河野龍太郎

1964年生まれ。87年、横浜国立大学経済学部卒業、住友銀行(現三井住友銀行)入行。89年、大和投資顧問(現三井住友DSアセットマネジメント)へ移籍。97年、第一生命経済研究所へ移籍、上席主任研究員。2000年、BNPパリバ証券株式会社経済調査本部長・チーフエコノミスト、2023年より東京大学先端科学技術研究センター客員上級研究員を兼務。日経ヴェリタス『債券・為替アナリストエコノミスト人気調査』で、2024年までに11回の首位に。日本経済研究センターのESPフォーキャスト調査で2023年までに7回、総合成績優秀フォーキャスター(予測的中率の高かった5名)に選出される。著書に『成長の臨界』、『グローバルインフレーションの深層』(共に慶應義塾大学出版会)、共著に『金融緩和の罠』(集英社)、共訳にアラン・ブラインダー『金融政策の理論と実践』(東洋経済新報社)等。

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