エコノミスト「IT革命は実質賃金の上昇をもたらさない」高所得者にのみ富が集中する“収奪的”システム

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 エコノミストの河野龍太郎氏は「ITデジタル革命の恩恵を受けたのは主に高所得者であり、高賃金な仕事と低賃金な仕事に二極化してしまった」と指摘する。なぜイノベーションは期待された効果を発揮できなかったのか。河野氏がその実態を解き明かす。全3回中の3回目。

※本稿は『日本経済の死角——収奪的システムを解き明かす』(ちくま新書)から抜粋・再構成したものです。

第1回:ディストピアが見えてきた!いま注目のエコノミスト「人間は退化を始めている」

第2回:エコノミスト「イノベーションは負担や苦痛の源泉になる」日本はイノベーションが欠如しているわけではない

目次

IT革命の恩恵を受けたのは「高所得者」

 歴史的に見ても、多くの場合、新たなテクノロジーは、自動化をもたらし、平均生産性を大きく引き上げることで、労働投入の削減によるコストカットを可能にし、そこで得られた収益のほとんどは起業家や資本家が享受してきました。

 実質賃金が上昇し始めたのは、19世紀後半になってからのことです。蒸気機関車という交通インフラ網が整備されたことで、大量輸送が可能になったこと、民主化の進展とともに、労働者が団結することで、起業家や資本家に対して、対抗力を得るようになったことが重なったからだと、アセモグルとジョンソンは論じています。これが成長の第一黄金期です。

 成長の第二黄金期は、米国では1920年代~1930年代の戦間期にその萌芽が見られますが、多くの先進国で、第二次世界大戦後に始まりました。そして第二黄金期は、第二次世界大戦後、30年余り続きましたが、1970年以降、それが途絶え、現在も経済成長や多くの労働者の実質賃金は足踏みを続けています。1990年代半ば以降、ITデジタル革命が始まり、それがブレークスルーとなって、幅広い人々の実質賃金の引き上げにつながると期待されていたのですが、残念ながら、そうはなりませんでした。

 米国で恩恵を受けているのは主に高所得者であり、1980年頃にトップ1%の高所得者層の所得全体に占める割合は10%程度でしたが、2010年代以降は20%程度まで上昇しています。

 一方、下位50%の人々の所得の割合は、1980年頃に20%程度を占めていましたが、2020年以降は10%程度まで低下しています。歴史的に見ると、疫病や戦争、革命が訪れた際には、経済格差が是正されるのが常でしたが、致死率が高くなかったせいか、2020年に世界を襲ったコロナ危機では、トップ1%の所得割合は、一段と切り上がりました。 

中間的な賃金の仕事が奪われた

 こうした経済格差の拡大の背景には、1990年代後半以降のITデジタル革命において、自動化を促すイノベーションが多いことがあるのだと思われます。また、同時期には、グローバリゼーションが加速したこともあります。先進各国では、製造業のサプライチェーンが細分化されて、製造現場が中国など新興国にシフトしました。いわゆるオフショアリングです。 

 こうした自動化やオフショアリングによって、製造業、非製造業を問わず、先進国では、中間的な賃金の仕事が減り、高い賃金と低い賃金の仕事への二極化が進みました。仕事を失った人が低い賃金の仕事に流れ込み、低賃金層の実質賃金を抑える要因となりました。

 最低賃金が存在するため、一定程度の歯止めは存在しますが、イノベーションによって底辺層の実質賃金が抑えられるのは、第一次産業革命が始まって最初の100年間で見られたことと同じ現象です。 

 80年代以降、米国では、上位5%の所得階層の実質所得が著しく増加する一方、下位20%の所得階層の実質所得が足踏みし、時間の経過とともに、経済格差が拡大しました。1990年代末から2023年までの間、米国の時間当たり生産性は5割上昇する一方で、実質賃金の上昇は3割弱にとどまりましたが、これはあくまで平均値の話であって、データの裏側には大きな所得格差が隠されていたのです。 

 本来、イノベーションに期待されることは、仮に労働者のスキルが十分でなくても、その人の補完として機能し、その人がより高度な仕事をできるようにする包摂的なタイプのものです。しかし、現実には、コストカットが主目的とされ、もっぱら中間的な賃金の仕事が代替されていきました。 

 一方で、低スキルのうちの低賃金労働の領域は、労働集約的で、物理的に負担の大きな重労働の仕事も多く、これこそ機械によるサポートが必要です。 しかし、中間的な賃金の仕事を失った人が流れ込み、さらに欧米では低スキルの移民の増加も加わったことで、実質賃金が低く抑え込まれ、機械化によるサポートは遅れたままです。

 本来、機械化・自動化されるべきところは、逆に人件費があまりに低いため、それが進まず、中間的な賃金の仕事ばかりが失われているのです。その結果、恩恵は、上位の所得階層に向かいます。

「無人レジ」を導入しても経済全体のメリットは限定的

 このように、イノベーションは、高いスキルをもった人に有利なものばかりとなりました。経済学では、過去四半世紀、ローレンス・カッツらを嚆矢とする「スキル偏向型の技術革新」論を用いて、さも当然の結果のように、高スキルの労働者に有利なイノベーションが続いてきたと説明してきました。果たしてそれは不可避だったのでしょうか。

 アセモグルとジョンソンによると、中間的な賃金の仕事で自動化が進んでも、現実には、「そこそこの生産性上昇」しか起こっていません。人件費の削減によって、莫大な利益が起業家や資本家の懐には転がり込んでいるものの、単にヒトを機械と置き換えるだけなので、経済全体で見ると、全要素生産性の改善もごくわずかなものに留まっているといいます。

 そもそも、本当は置き換えが上手くいっているわけでもありません。人間の行動は、周囲の環境に対応したフィードバック・プロセスに基づいたものであり、微妙な対応が可能です。しかし、AIを含めてITデジタル技術にはそれができないため、実際には、人間が行う業務の一部を代替するに過ぎません。このため、ITデジタル革命によって、限界生産性の上昇が起きていないだけでなく、平均生産性や全要素生産性についても、そこそこの改善しかもたらされていないのです。 

 コロナ禍をきっかけにした人手不足も加わり、現在、米欧では無人レジなどが広範囲に導入され、日本でも追随する動きが広がっています。人件費の削減によって、企業は利益を大きく増やすことができても、「そこそこの生産性上昇」である限りは、経済全体のメリットも極めて限定的ということです。

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この記事の著者
河野龍太郎

1964年生まれ。87年、横浜国立大学経済学部卒業、住友銀行(現三井住友銀行)入行。89年、大和投資顧問(現三井住友DSアセットマネジメント)へ移籍。97年、第一生命経済研究所へ移籍、上席主任研究員。2000年、BNPパリバ証券株式会社経済調査本部長・チーフエコノミスト、2023年より東京大学先端科学技術研究センター客員上級研究員を兼務。日経ヴェリタス『債券・為替アナリストエコノミスト人気調査』で、2024年までに11回の首位に。日本経済研究センターのESPフォーキャスト調査で2023年までに7回、総合成績優秀フォーキャスター(予測的中率の高かった5名)に選出される。著書に『成長の臨界』、『グローバルインフレーションの深層』(共に慶應義塾大学出版会)、共著に『金融緩和の罠』(集英社)、共訳にアラン・ブラインダー『金融政策の理論と実践』(東洋経済新報社)等。

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