万博で物議醸すトイレ「舐めてんのかと思った」「丸見えすぎる」…吉村知事が「魂吹き込んだ」結果、「出口もわからず、衛生観念ゼロ」

開幕前から日本中のメディアが指摘した「大阪万博のトイレが高すぎる問題」だが、開幕してから利用者からその使いにくさが問題視されている。例えば、会場内にある子ども用のトイレには壁や間仕切りのような目隠しがなく、テストランで訪れたという女性が「仕切りもなくて丸見えすぎる」という投稿をXにし、話題を呼んだ。ほかにも、出口と入口が別々の男性用小便器について「万博に肯定的な私でさえ、このトイレは舐めてんのかと思った」と利用者が投稿した。一体なぜこんなことが起きているのか。経済誌プレジデントの元編集長で作家の小倉健一氏が解説するーー。
目次
ガバナンスの欠陥が招いた放漫な予算執行
大阪・関西万博のトイレ問題は、筆者が開催前から継続的に指摘してきた深刻な課題である。会場建設費の高騰に始まり、1カ所あたり最大2億円に迫る「デザイナーズトイレ」の存在が明らかになった際、その異常なコスト感覚と税金の使途に対する疑念は頂点に達した。この価格は一般的な公園トイレ建設費の数倍に相当し、関係者からも「高すぎる」との声が上がっていた。建築家の証言によれば、2億円のコストは1億5000万円程度まで圧縮されたというが、半年程度の会期で役割を終える施設としては、到底正当化できるものではない。
万博協会や推進派の一部は、若手建築家への機会提供やデザイン性を理由に挙げようとする。高すぎるトイレの建築費用への批判に対し、大阪府の吉村洋文知事は「トイレにも魂を吹き込んで」とその意義を説明したが、魂を吹き込めば税金の無駄遣いが許されるわけではない。過去、知事自身が京都市役所の高額な漆塗りエレベーター扉を厳しく批判した事実を想起すれば、そのダブルスタンダードは明白である。納税者の感覚からすれば、半年間のイベントのために2億円のトイレを建設する必要性は全く理解できない。予算執行監視委員会でも指摘されたように、組織的なガバナンスの欠陥が、こうした放漫な予算執行を許容している可能性が高い。
さらに問題なのは、この高額なトイレが、利用者の利便性や快適性、安全性を著しく損なっている点である。開幕後の報道やSNSでの報告は、万博トイレの惨状を次々と伝えた。驚くべきことに、筆者がみんかぶマガジン(2024年2月14日)で問題提起したように、豪華なはずのトイレには手を拭くためのペーパータオルもハンドドライヤーも設置されていない。
利用者のことを全く考えていない設計
万博協会はその理由をSDGsへの配慮や計画時のコロナ禍状況を挙げたが、基本的な衛生設備を省略することは本末転倒であり、感染症対策の観点からも極めて危険である。大阪府自身のウェブサイトでも推奨している基本的な対策が、万博会場では無視されている。来場者へのハンカチ持参の呼びかけすら予定しないという協会の姿勢は、無責任と言わざるを得ない。
デザインを優先した結果、トイレの基本的な機能が損なわれている例は枚挙にいとまがない。デザインを優先するあまり、入口と出口が別々で分かりにくい、施錠方法が特殊、男女の区別がつきにくいといった利用者を混乱させるトイレが続出している。利用者は戸惑い、長い行列が発生……Xでは「目の前でトイレ破壊された」とまで報告された。小便器ですら個室化され、利用効率を著しく低下させている。手洗い場も、水の出が悪かったり、水が床に直接流れ落ちたり、荷物を置くスペースがなかったりと、利用者のことを全く考えていない設計が露呈している。
「壁のない丸見えの子ども用トイレ」も、設計思想の問題点を象徴している。協会は幼稚園・保育園向けカタログを参考にしたと説明するが、不特定多数の人間が出入りする万博会場と、顔見知りの多い保育施設とでは状況が全く異なる。プライバシーへの配慮が欠如しており、子どもへの人権意識の低さを示すものだ。専門家からも「プライバシーを侵害する環境」といった批判が上がっている。
「公衆トイレのデザイン偏重」という悪しき潮流
こうした万博トイレの惨状の背景には、近年一部の自治体、特に都市部で見られる「公衆トイレのデザイン偏重」という悪しき潮流が存在する。実際に、建設物価調査会のデータによれば、公衆トイレの1平方メートル当たりの工事費は過去10年ほどで倍増しており、日経新聞(2024年2月8日)も「公衆トイレ『街の顔』に変身 工事費倍増、1億円超えも」と報じている。
問題なのは、このコスト上昇が、利用者の利便性や安全性向上といった実質的な価値向上だけでなく、過剰な「デザイン性」の追求によってもたらされている点である。その最も象徴的な事例が、渋谷区が日本財団と連携して2020年から2023年にかけて実施した「THE TOKYO TOILET」プロジェクトであろう。
奇抜な外観や話題性を過度に追求しているのではないか
このプロジェクトでは、安藤忠雄氏、隈研吾氏、伊東豊雄氏、坂茂氏、NIGO氏といった、国内外で著名な建築家やデザイナー、クリエイター計16名が、区内17カ所の公共トイレのデザインを手がけた。日本財団の発表によれば、プロジェクトの総費用は約20億円(当初予算は約17億円)にのぼり、1カ所あたり平均で1億2000万円近い費用が投じられた計算になる。
プロジェクトの公式な目的は「性別、年齢、障害を問わず、誰もが快適に利用できる公共トイレ」の設置だという。だが、このプロジェクトは「デザイン偏重」の象徴として、多くの疑問と批判も投げかけている。「街の顔」「イメージ向上」「新たな観光資源」といった美名の下で、自治体や関連団体が、著名な建築家やデザイナーという「ブランド」に頼り、奇抜な外観や話題性を過度に追求しているのではないか。トイレの最も基本的な機能である「誰もが容易に、安全かつ清潔に用を足せる」という点が、デザイン性や芸術性の追求の前に霞んでしまってはいないだろうか。実際、一部のトイレでは、そのユニークさゆえに使い方が直感的に分かりにくい、あるいは汚れが目立ちやすく清掃に手間がかかるといった問題点も指摘されている。
税金が本来の目的から逸脱して使われているのではないか
さらに深刻なのは、費用対効果の問題である。1カ所あたり1億円を超える建設費や高額なデザイン料は、果たして公共トイレとして妥当なのだろうか。その予算があれば、より多くの場所に標準的で機能的なトイレを設置できたのではないか、あるいは既存のトイレの改修や清掃頻度の向上など、より地道だが多くの利用者にとって恩恵のある施策に充てられたのではないか。
高額なデザイン料が一部の著名な専門家に集中することも、公平性の観点から疑問視される。住民のニーズ調査が十分に行われた上で計画が進められたのか、それとも一部の専門家や行政担当者の意向が優先された結果なのか、プロセスにおける透明性の確保も重要である。税金が、一部のデザイナーや建築家の自己実現や実験の場として、あるいは自治体の対外的なアピールのために、その本来の目的から逸脱して使われているのではないか、という疑念は拭いがたい。
日本の恥部を露呈するモニュメント
この「デザイン公衆トイレ」の潮流が、大阪万博のような巨大プロジェクトにおいて、コスト感覚をさらに麻痺させ、機能性や実用性を二の次にする土壌を作り出したと言える。デザイナーや建築家にとっては自身の作品を発表する格好の機会となり、主催者側は「先進性」や「話題性」をアピールできる。その一方で、実際に利用する人々の不便さや、巨額の税金を負担する納税者の視点は忘れ去られがちである。万博の「デザイナーズトイレ」は、まさにこの構造的な問題が、極端かつ最悪の形で噴出した事例なのだ。2億円という異常なコスト、デザイン優先による機能不全、利用者の混乱、そしてSDGsなどを持ち出す説明責任の回避。これらは全て、公共事業における費用対効果や本来の目的を見失った結果と言える。
対照的に、2021年の東京オリンピック・パラリンピックでは、選手村のトイレが高い評価を受けた。それは奇抜なデザインではなく、日本の技術力や「おもてなし」の精神に根差した、実用性、快適性への配慮が評価された結果である。世界から評価を受けるのは「デザイン」ではない。トイレに魂を吹き込もうとする発想がどうかしているのだ。
万博も、日本の最先端技術をPRするために開催されているはずなのに、聞こえてくるのは建築物のデザイン性ばかりだ。このままでは、国際社会に対して日本の恥部を露呈するモニュメントとなりかねない。早急な改善とともに、公共事業のあり方そのものを見直す契機としなければならない。