米が高いと感じるのは国民感覚がおかしいからなのか…巨大農業組織JAの基本姿勢は「補助金をもっとください」

長引く物価高が庶民の暮らしを直撃する中、特に家計を圧迫しているのがコメだ。コメと言えば、本来は手ごろな価格で安定的に手に入るべき「国民食」のはず。だが備蓄米放出を経てもなおコメ価格は高止まりしたままで、一向に本来あるべき水準まで下がる気配を見せない。ところがそうした状況の中、JA関係者から聞こえるのは「国民はわかっていない」と言わんばかりの傲慢で現実が見えていない声ばかりだ。コメ高騰は、消費者に責任転嫁するばかりで問題の本質に向き合おうとしないJAに責任の大きな一端があるのではないか。経済誌『プレジデント』の元編集長で作家の小倉健一氏が厳しく糾弾するーー。
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国民は「わかってない」豪語する“上から目線”
国民の怒りと落胆を誘ったのは、JA(農業協同組合)グループの広報役とも言える日本農業新聞に寄稿されたJA松本ハイランドの田中均代表理事組合長の見解である。田中氏は2024年4月24日付の寄稿で、価格高騰に苦しむ消費者の視点をあざ笑うような姿勢を示し、まるで国民が「ごはん一杯の値段すらわかっていない」と決めつけた。「5kg4,000円としたら、1杯は50円、コンビニのサンドイッチは300~350円」と説くが、この主張には経済的現実への認識が著しく欠けている。
現実を見失ってしまっている主張に対して、どこから説明して差し上げればいいのかわからないが、家で炊いたお米の原価とコンビニのサンドイッチを比べても仕方がない。お米にサンドイッチ同様の具材をつめて、コンビニで並べたときの値段を比べるか、家で小麦から食パンを作ったときの小麦の原価と比べるべきである。
ちなみに、レンジで温めて食べる「ごはん」は一人前で、セブンイレブンで181円である(7プレミアム特別栽培米宮城県産ひとめぼれ)。サンドイッチと比べるためにはここに具材を加えるわけだが、どう考えてもお米の方が高くなりそうである。
また、価格の絶対値ではなく、問題は「相対的な価値」にある。所得が伸び悩み、他の食品価格が上昇する中で、なぜ国内米だけが高止まりするのか、その構造に対する問いに答えることなく、飲食店の「ご飯無料サービス」の例を持ち出して消費者を諭す姿勢は、支配的立場からの居丈高な論調に過ぎない。無料提供される米の原価は、多くの場合、業務用価格や販促費用に基づく戦略的価格設定の一環であり、それを個人消費の適正価格と混同することは経済論理のすり替えである。
改革努力を放棄して国民に「責任転嫁」の思考停止
こうした田中氏の寄稿は、JA組織に巣食う思考停止と責任転嫁の構造を象徴している。自らの改革努力を欠いたまま、国民に「理解」を求める姿勢に、納税者が応える理由はどこにもない。
いま、米の価格が記録的に上がり、多くの国民が苦しんでいる。日本の農業の行方が問われるなかで、日本農業新聞が、2025年5月13日と14日に掲載した論説も、自分たちを正当化し、責任を他に押しつける内容だった。
二つの論説では、農業の本当の問題から目をそらし、あたかも国民に原因があるかのような印象を与えている。その背景には、JAという巨大組織が長年守ってきた古い利権の仕組みがある。この構造を守ろうとするあまり、事実をゆがめるような主張すら平然と行っている。こうしたごまかしや責任逃れの姿勢を見過ごすことはできない。今こそ、その誤った主張を正し、本当に持続可能な農業の道を明らかにすべきである。
例えば、5月13日付の論説「適正価格へ法案審議 国民理解醸成が最優先」は、責任転嫁の極みである。米価高騰への対応策として「国民理解」を掲げ、「農家所得の確保には仕組みづくりが必要」とする記述は、問題の根本をすり替えている。求められているのは「理解」ではなく、公正な競争と効率的な流通によって実現される納得できる価格である。
自分たちのことは棚上げ?補助金の“不適切使用”から目をそらすJA
論説は、生産費が60kgあたり15,948円に対し、収益は12,945円で赤字だと訴えるが、そのコストが高止まりしている背景──非効率な生産構造や、JAによる資材供給・販売の独占については触れようとしない。
実際、会計検査院は複数の補助金がJAや関連団体によって不適切に使われてきたと指摘している。「農業次世代人材投資資金」では就農義務が守られず、「産地パワーアップ事業」では目的外使用が横行した。政府米販売でも、積算ミスによる不透明な価格上乗せがあった。これらは、JAが価格の透明性を損ねてきた証拠である。
さらに、SNS上で拡散された「備蓄米の入札で米価が高止まりした」という声に対し、論説は否定的だが、価格高騰の原因が農水省とJAによる統制的な集荷構造にあることは否定できない。備蓄米の放出は不透明で、価格の柔軟性を高める仕組みになっていない。
消費者に高価格を強いながら露骨な保護主義を求める欺瞞
5月14日付の論説「JAグループ政策提案 構造転換へ予算万全に」は、「譲歩なき関税維持」を求める内容であり、露骨な保護主義の表明である。現在のコメ関税は280%前後で、かつては778%にも達していた。これが農業の競争力を奪い、消費者に高価格を強いる原因である。
関税に守られたままでは、日本の米は世界市場から孤立し、技術革新も進まない。補助金と保護で維持される農業に未来はなく、自立の芽はいつまでも育たない。
農水予算の拡大を求める論説も、制度疲労と責任転嫁の構造を温存するだけの論理である。「農業構造転換集中対策期間」に対し、「農水予算を別枠で思い切って拡大すべき」と主張するが、会計検査院はすでにこの類の予算措置が無駄と化している実態を明らかにしている。「スマート農業関連支出」では、導入された機器が放置され、活用実績もKPI(成果指標)も確認されていない事例が多数見つかっている。ICT導入が成果であるという前提自体が誤りであり、費用対効果に対する検証が欠如している点で、政策としての正当性を欠く。
「満額補助がなければ成り立たない」嘆く態度に国民は呆れている
JAが主張する「共同利用施設の補助率引き上げ」も、公共支出を伴う問題提起としては不適切である。老朽化した施設の更新は、経営者の自助努力と内部留保によって進めるべきであり、外部からの恒常的な支援を前提とした制度設計は、モラルハザードを引き起こす。施設の維持管理責任を、自治体や国に丸投げし、「満額補助がなければ成り立たない」と嘆く態度は、もはや経営主体としての自律性を放棄していると言える。
「国産を選ぶことが農家支援になる」という主張は、情緒的には理解できるが、構造的背景を無視している。消費者が商品を選ぶ基準は価格と品質であり、「高すぎる価格」「妥当でない品質」「閉鎖的な流通体制」が残されたままでは、応援の意思が購買に結びつくことはない。補助金を受け、関税に守られた状態でなお、価格と品質において国際水準を下回る商品を提供している現状こそが、信頼を失わせている。
「補助金頼み」の農業で消費者がコストを負わされている
日本の農業が前に進めない理由の一つは、閉じられた仕組みが長年にわたって放置されてきたことにある。これは、国際的な研究によっても明らかにされている。世界銀行が進めた大規模な研究プロジェクトの中で、エステバン・バレンスエラ、ドミニク・ファン・デル・メンスブルッヘ、カーステン・アンダーソンが行った実証分析『価格歪曲が世界市場・農家所得・福祉にもたらす一般均衡効果』(2008年)は、100か国以上の農業政策を比べたものである。
この研究は、関税や補助金などによって市場価格が不自然に変えられている状況(価格のゆがみ)を、CGE(一般均衡モデル)という経済の動きを再現する手法で調べた。その結果、こうした政策を減らせば、農業全体の付加価値、つまり生産の中身や価値が平均で4.9%も高まることがわかった。逆に、補助金や関税を使いすぎると、農家が創意工夫する力を弱め、設備投資も進まなくなる。
自由な市場に任せた国では、農業が地に足をつけて発展しているのに対し、補助金頼みの国では、農業が長く停滞している。この研究は、単なる予測ではない。世界銀行が集めた詳細な各国データにもとづいて、実際の政策がどのように影響したかを、数字で正確に評価したものである。
研究では、関税や補助金が世界の農産物価格を平均で13%も高くしていたという結論も出されている。これがなくなれば、世界の食料価格は下がり、買う側にとっても大きなメリットになる。日本の消費者にとっても、これは無関係ではない。
既得権益を守ることだけに必死?国民は置き去りに
一方、日本の農業は補助金によって支えられてきたが、その使い道に問題が多い。使われない施設や、現場で活かされないICT(情報通信技術)機器、形だけの流通支援など、非効率な状態が放置されている。補助金は本来、一時的に助けるための手段であるはずなのに、日本ではそれが当たり前になり、見直されないまま継続されている。
このような仕組みを守ろうとしているのが、JAなどの農業団体である。彼らは、市場で競い合うのではなく、補助金と関税という既得権を守ることを目的に動いている。その象徴が、田中均組合長の寄稿文や、日本農業新聞の論説である。いずれも、価格の話を避け、「理解」や「支援」といった耳ざわりのよい言葉にすり替え、本質的な議論を避けている。