なぜ日本だけ「のれん」を削るのか。トヨタ、日立、ソニー…グローバル企業は償却から自由になった

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 企業の買収には、帳簿には現れない「価値」がある。ブランド力や技術ノウハウ、顧客との信頼関係といった無形の資産だ。それらを数値で表す手段として、会計上に現れるのが「のれん」である。こののれんをどう処理するかは、単なる会計ルールの問題ではない。償却によって毎年利益を圧迫するのか、それとも価値が毀損したときにだけ損失処理するのか——制度の違いは、企業の投資判断や株主の評価、さらには日本経済の競争力にまで波及する。見えない価値をどう扱うか、その問いに、世界と日本は今、異なる答えを出そうとしている。日経新聞の編集委員である小平龍四郎氏が分析するーー。

目次

企業買収に潜む「見えない資産」

 企業を買うということは、帳簿を買うのではない。買い手が見つめているのは、その企業が持つブランドや人材、技術力、さらには将来の可能性といった「数字に表れないもの」だ。それらを金額で評価したとき、買収価格が帳簿上の資産を上回ることがある。この差額が、「のれん(goodwill)」である。

 たとえば、純資産が6000億円の会社を1兆円で買収すれば、差額の4000億円がのれんとなる。それは、ある意味で「希望に対する投資」であり、企業の将来性に対する信任票でもある。

 だが、こののれんをどうやって会計上処理すべきか——この問いが、単なるテクニカルな問題ではなく、企業の成長戦略や市場の評価、日本経済の方向性にまで関わる問題として、いま再び浮上している。

のれんをいつ減らすか…日本と海外で異なる「期待値」の扱い方

 のれんをめぐる国際的な会計ルールは、おおまかにふたつに分かれる。日本では従来から、のれんを一定期間で定額償却することが求められてきた。「時間とともに期待は薄れる」という前提に立ち、毎年その価値を少しずつ費用として計上する。これは会計の保守主義に根ざした考え方である。

 一方、米国や欧州を中心に採用されている会計基準では、「価値が明確に減少したときにのみ減損処理を行えばよい」とする非償却・減損モデルが主流だ。のれんは資産としてそのまま残り、企業が価値の低下を認識したときに初めて、損失として処理される。

 表面上は処理方法の違いに見えるが、背後にあるのは会計に対する根本的な姿勢の違いだ。日本の償却主義は「慎重に、確実に」将来への期待を減らしていく。一方、米欧の減損主義は「企業の判断と説明責任」を信じて、市場の変化に柔軟に対応しようとする。

トヨタもソニーもIFRS採用 変わる日本の経営スタンダード

 日本企業の経営者にとって、のれん償却は長らく悩みの種だった。成長のために海外企業を買収しても、その直後から「期待の代償」として毎年の償却費が利益を圧迫する。収益性が低下すれば、株価が下がり、株主からの評価も厳しくなる。

「長期的にはプラスの投資でも、短期の業績が悪化すれば社内の支持を得にくい」

 ある上場企業の役員はそう語る。M&Aに消極的になるのは、制度によって合理的な意思決定が阻まれているからだ、と。

 実際、IFRS(国際会計基準)に移行した日本企業の多くは、のれん償却の負担から解放され、より積極的な投資戦略を取るようになっている。トヨタ自動車、日立製作所、ソニーグループなど、グローバルに展開する企業のほとんどがIFRSを採用している。その合計時価総額は東証の過半を占めており、日本経済の中核を成していると言っていい。

会計が生むリスクの見え方 償却か減損か、判断の分かれ目

 一方で、のれんを償却しない制度に対して、投資家からは「帳簿に残ったのれんの価値は、本当にあるのか?」と別の不安も聞こえてくる。

 米国では、ITバブル期の過剰な期待を反省して減損ルールが導入された経緯がある。しかし、その後も企業が実際に減損処理を行うまでには時間がかかるケースが多く、投資家の信頼を損なう一因にもなった。企業の判断に委ねられる「減損」は、ときに“後出しの失望”を市場にもたらす。

 つまり、のれんを償却すれば利益は減るが、将来のリスクを先取りできる。償却しなければ利益は維持されるが、価値が本当に毀損しているかどうかがわかりにくい。投資家にとっては、どちらのルールがより信頼に足るのかという判断が迫られる。

世界は償却を捨てた──日本の“会計主義”が試されるとき

 米国のFASB(財務会計基準審議会)とIASB(国際会計基準審議会)は、2022年にのれん償却の再導入をめぐる議論を打ち切り、現行制度を維持する方針を決定した。議論の再開はしないという声明付きである。

 理由は明白だった。長年のM&Aで蓄積されたのれんは、すでに多くの企業で純資産の3〜4割を占めている。もし今から償却を導入すれば、企業の財務は大きく揺らぎ、株価は急落する。実務上の混乱を避けるため、欧米は理論よりも現実を選んだのだ。

 この決定は、日本にとって苦いものだった。長年、会計の原則として「のれんは償却すべき」と主張し続けてきた日本の立場は、事実上退けられた。いま問われているのは、日本がこの現実をどう受け止めるかである。

国際協調か、制度的自律か…問われる日本のスタンス

 誤解してはならないのは、日本がこの国際的な会計基準づくりに無関係だったわけではない、という点だ。国際会計基準の前身であるIASC(国際会計基準委員会)は1973年に発足し、日本はその創設メンバーとして加わった。1993年から95年にかけては日本人会計士・白鳥栄一氏が議長を務めている。

 2001年にIASCがIASBとして再出発してからも、日本は理事を継続的に輩出してきた。山田辰己氏、鶯地隆継氏、鈴木理加氏の3人が、その責任を担ってきた。東京にはIFRS財団のアジア・オセアニア拠点が置かれ、金融庁も監督当局として関与している。

 つまり、日本は「押しつけられている」のではなく、「一緒につくってきた」のである。

 会計という制度は、企業の真実を記録する装置であると同時に、社会の価値観を映す鏡でもある。のれんの会計処理をどうするか。そこには、将来への希望と慎重さのバランス、企業の挑戦と説明責任のせめぎ合い、そして国際協調と制度的自律の間で揺れる日本の姿が、くっきりと浮かび上がる。

 制度を守るか、未来に賭けるか。会計という一見ささやかなルールをめぐる問いが、いま日本の経済と社会のあり方を映し出している。

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この記事の著者
小平龍四郎

1964年生まれ。静岡県出身。早稲田大学第一文学部卒業。日本経済新聞入社後は主に金融・証券畑を歩き、「山一証券破綻」「村上ファンド登場」などの特報にかかわる。欧州総局(ロンドン)やアジア総局(バンコク)を経験し、現在は日経新聞の編集委員。専門は証券市場、ESG/SDGs、企業統治。著書は「グローバルコーポレートガバナンス」「アジア資本主義」「ESGはやわかり」。 Twitter:@Kodaira_Nikkei

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