自民党の「不透明すぎる意思決定プロセス」に党内で不満噴出か…保守派期待の若手ホープが現状を暴露

祖父に中曽根康弘元首相、父に弘文元外務大臣を持つ、自民党の中曽根康隆衆議院議員。誰もが認める政界のサラブレッドだが、その経歴は決して平坦なものではなかったという。
物価高、少子化、安全保障――。課題が山積する日本で、現役世代の代表として何を思い、何を目指すのか。青年局長として自民党という巨大組織を内側から変えようと奔走している同氏に、紆余曲折の半生から日本の未来像まで、たっぷりと語ってもらった。短期連載全4回の第2回。(取材日:6月24日)
目次
エリート金融マンのキャリアを捨てて政治の道を選んだ本当の理由
――金融マンとしてキャリアを積まれていた中で、なぜ政治家を志すようになったのでしょうか。決定的なきっかけがあったのですか?
これといった一つの決定的な出来事があったわけではないんです。ただ、大きく分けて二つの要因があったと考えています。
一つは、やはり「育った環境」です。先ほどお話しした通り、父も祖父も政治家でしたから、私にとって政治家は最も身近な職業でした。常に忙しそうにしている姿を見ていましたが、同時に、大きなやりがいを持って仕事に取り組んでいるのだろうな、ということも感じていました。だから、心のどこか、頭の片隅には常に「政治家」という選択肢があったのは事実だと思います。
そしてもう一つが、学生時代から社会人になっても続けていた、父の政治活動や選挙活動の手伝いです。大学の授業が終わった後に新幹線で群馬に駆けつけ、訳も分からないまま大勢の前で挨拶をさせられたこともありました。社会人になってからも、平日は丸の内で金融マンとして働き、土日は父の選挙区である群馬の中山間地を一軒一軒歩いて、「父をお願いします」と頭を下げて回る。
そうした活動を続ける中で、中曽根家がどれだけ地元・群馬の皆さんにお世話になってきたか、ということを身をもって感じました。「あなたのお父さんのおかげで」「あなたのおじいちゃんには助けられた」と、本当に多くの方々から声をかけていただいたんです。その一つ一つの声に触れるうちに、自分もこの愛する群馬のために、そして次の世代のために、自分にしかできない仕事で恩返しをしたい、という思いが日に日に強くなっていきました。そして最終的に、自分も政治の世界を目指してみよう、と決意を固めたんです。
父が息子の政界入りを頑なに拒んだワケ「お前は分かっていない」
――その決意を、ご家族はどのように受け止めましたか?
実は、両親には大反対されました。「絶対にダメだ」と。政治の世界はそんなに甘くないし、そもそもお前が出る選挙区なんてないだろう、と。祖父はもう引退していましたし、父は参議院議員として現役でしたから、衆議院の選挙区に地盤があるわけでもない。それに加え、この「中曽根」という名前を背負って政治の世界に入ることがどれだけ大変なことか、お前は分かっていない、と厳しく言われました。
社会人3年目の時に、一度、自分の思いを固めて親に伝えたのですが、全く聞く耳を持ってもらえませんでした。思いの丈を綴った手紙も書きました。「なぜ自分が政治家を目指すのか」ということを必死に訴えましたが、それでもダメでした。
前触れなく退路を断った突然の「退職劇」上司も絶句
――どのようにして説得されたのですか?
結局、2年間、平行線のまま時間が過ぎてしまいました。このままではラチが明かないと思い、ある日突然、会社を辞めたんです。もう退路を断つしかない、と。
本当に、その日の朝、出社した時点では辞めるつもりはなかったんです。でも、デスクに座って仕事をしているうちに、「ああ、もう今日、部長に辞めるって伝えなきゃダメだ」となぜか強く思ったんですよね。それで、その日のうちに上司に退職の意向を伝えました。もちろん、部長も驚いていましたね。私がそれまで政治の話など一切そぶりも見せていなかったので。
会社を辞めてしまったことで、父も「そこまでの覚悟があるなら」ということで、ようやく折れてくれました。
中曽根康弘元首相がつぶやいた一言に感動「自分の人生は…」
――祖父である康弘元総理は、何かおっしゃっていましたか?
祖父は、「やれ」とも「やめるな」とも言いませんでした。ただ、私が決意を固めて報告に行った時に、こう言われました。「自分の人生は、自分で切り開け。チャンスは待っていても来ないから、自分から掴みに行け」、と。
この言葉は、今でも鮮明に覚えています。あの時の私の背中を、力強く押してくれた、忘れられない言葉です。
将来の首相候補がひたすら「党内野党」に徹するワケ
――現在、自民党の第56代青年局長を務められています。このポストは、安倍晋三元総理や岸田文雄前総理も経験され、「総理への登竜門」とも言われますが、具体的にはどのような役割を担っているのでしょうか?
一言で言うならば、「党内野党」です。自民党という巨大な組織を、内側から変えていく。特に今のように、政治不信から自民党の信頼が大きく失われている状況においては、非常に重い役割を担っていると考えています。
青年局には、全国47都道府県に学生部や地方議員など、約2,000人のメンバーがいます。彼ら、彼女らから上がってくるのは、単なる「声」というよりは、党執行部に対する「不満」や「怒り」です。私は、そうした現場の生の声を一旦すべて預かって、総裁や幹事長といった党のトップに直接ぶつけていく。それが私の仕事です。
そして、ただぶつけるだけで終わりではありません。実際に「自民党をこういう方向に変えていってほしい」という提言をまとめ、党が本当に変わるまで、その進捗をモニタリングし、ある意味で「突き上げていく」。それが青年局の大きな役割です。
「総理への登竜門」とよく言われますが、それはあくまで結果論だと思います。青年局長には「当選4回以下、45歳以下」という規定があります。つまり、若いうちに当選していないと就けないポストなんです。若くしてキャリアをスタートさせている分、結果的に将来、重要なポジションに就く可能性が高まるというだけであって、青年局長になったから総理になれる、というものでは全くありません。それは本人の資質と能力次第です。
自民党の「不透明すぎる意思決定プロセス」党内で不満蓄積か
――現場のメンバーからは、具体的にどのような「不満」や「怒り」が上がってきていますか?
例えば、これは国民の皆さんには直接関係ないかもしれませんが、「党内の意思決定プロセスが不透明すぎる」という声は非常に多いです。地方で活動している党員や地方議員が全く知らないところで、いきなり自民党の方針がトップダウンでポンと決まり、それがメディアで報じられる。
その方針が、地域の実情に合わなかったり、地元の皆さんから不評だったりした場合に、「一体どうなっているんだ」と突き上げられるのは、現場で有権者と日々向き合っている地方の党員や議員たちなんです。彼らが「どうなっているのか」と問われても、「分かりません。私たちも知らないうちに決まっていました」としか答えようがない。こうした状況が多すぎる、という強い不満が、青年局には数多く寄せられています。
ですから、私たちは先月も、党の意思決定プロセスの中に、もっと青年世代の声を反映させる仕組みを作ってください、といった内容の提言を執行部に提出しました。