なぜ日本だけ給料が上がらないのか?その答えは「ノルム」にあった!

実質賃金が下がり続けている。この理由としてよく指摘されているのが、「企業の内部留保」だ。しかし、ではなぜ企業は内部留保を続けるのか。BNPパリバ証券経済調査本部長・チーフエコノミストの河野龍太郎氏は、それは「ノルム」のせいだと指摘する。ノルムとは何なのか?本来企業はどれくらい賃上げできるはずなのか?そんな疑問について、河野氏とみずほ銀行チーフマーケット・エコノミストの唐鎌大輔氏が語り合う。全3回中の第1回。
※本稿は河野龍太郎・唐鎌大輔著「世界経済の死角」(幻冬舎新書)から抜粋、再構成したものです。
第2回:エコノミスト「日本の危機はアメリカ次第」円はドル体制の安定性に組み込まれている
第3回:賃金が上がらない日本と格差が広がるアメリカ、どちらが根深い問題なのか
目次
賃上げしない原因は「ノルム」
唐鎌:「企業が儲けても、従業員の賃金を上げない」という状況が、特定の企業だけで起きているのなら、まだ理解できます。現実は、ほとんどの日本企業が同じような対応を続けてきました。これはなぜなのでしょうか。
乱暴な言い方をすれば、たくさん収益が出たとき、労働者ではなく、自分たち(企業)で“ぶんどっている”といった構図になっているかと思います。これは日本特有のカルチャーみたいなものと考えるべきでしょうか。
河野:私はカルチャーというより、一つのノルム──歴史的経験を通じて社会的に形作られる習慣──のようなものだと思います。
唐鎌:なるほど、ノルムですか。近年の日銀も多用するフレーズですね。
河野:社会の多くの人や企業が従う習慣や規範、いわゆるノルムは、歴史的な出来事が積み重なることで形成されていきます。たとえば、日本では1990年代末に金融危機が起き、その影響が落ち着いたかと思えば、2000年代末にはリーマンショックが起こり、輸出産業の売上が大きく落ち込みました。
1990年代末にはメインバンク制も崩壊しているので、繰り返される経済危機の経験から、日本企業は長期雇用制を守るためにも「たとえ利益が出ても、それを社内に蓄え、次に訪れるかもしれない危機に備える」という行動を取るようになり、これが産業界の規範になりました。
実際、過去四半世紀を振り返ると、国内で果敢にリスクを取り、投資を進めた経営者ほど、経済危機の際には赤字の責任を問われて退任に追い込まれてきました。そして、いくつもの危機を経て現在の財界を見渡すと、リスクを取らなかった人たちが生き残っているようにも思われます。
唐鎌:なるほど。日本企業の「守りの姿勢」には、そうした歴史的背景が色濃く反映されているわけですね。
企業の成功体験が落とし穴に
河野:私は以前から「儲かってもため込むばかりで、賃上げにも国内投資にも消極的な大企業こそが、日本の長期停滞の元凶」と指摘してきました。そんな中、2020年春、コロナ危機が始まった直後にお会いした何人かの財界人から「河野さんの言うことを聞かなくてよかったよ」と言われました。
ムッとして真意を尋ねてみると、儲かってもお金を内部にため込み、賃上げも抑え、リスクも取らなかったおかげで、今回のコロナ禍で売上が激減しても、雇用リストラや倒産の危機を避けられたというのです。つまり、儲かってもため込み、賃上げも国内投資も抑えることが、完全な成功体験となっているわけです。
コロナ禍でその成功体験がさらに強化され、その結果、賃金や投資を抑え、利益を蓄えようとする傾向に拍車がかかっているのです。
唐鎌:多くの日本企業は「何かあったときのために」と、内部留保を積み上げてきたと思いますが、それがコロナ危機で正当化されてしまったのかもしれないですね。
ちなみに日本、アメリカ、ユーロ圏の企業部門(非金融法人)が抱える現預金について、名目GDP比で比較すると、2024年12月末時点でアメリカが約6%、ユーロ圏が約25%であるのに対し、日本は約60%です。各社ごとに個別事情はあるとはいえ、マクロの数字を見る限り、ある程度のベアが進むのが自然に思えます。
いずれにせよ、日本企業の抱えるノルムが成長を阻害した部分はあったように思います。
河野:そうなのです。2013年に300兆円だった利益剰余金は、2023年には倍の600兆円で、2023年は前年対比で50兆円も膨らんでいます。
近年の加速は、予想された通りではあるのですが、私の大企業経営者に対する警告は、まったく効果がなかったとも言えます(笑)。
インフレが進んでも、実質賃金の上昇は今後もゼロのまま
黒田東彦氏は日銀総裁在任中に2%の物価安定目標を達成できなかった理由として、ノルムの存在をあげました。いわば「ゼロインフレ・ノルム(≒デフレ・ノルム)」が、企業による値上げや賃上げを阻んだというのです。
おそらく日本企業は今後、足元の物価高の分についてベアに反映させることになるだろうとは思いますが、結局は「実質ゼロベア(物価の上昇幅と同じ程度しかベアを行わない)」にとどまるのではないか、と懸念されます。
唐鎌:実質ゼロベアを超えて、実質プラスベアの領域に入ったとき、前向きな意味でデフレ脱却を標榜できそうですが、なかなか難しそうですよね
河野:インフレが進み、賃上げも行われている現在ですが、本質的な問題は変わっていないのではないかと私は考えています。つまり、「ゼロインフレ・ノルム(物価が上がらないのが当たり前)」ではなく、実は「実質ゼロベア」こそがノルムだったのではないか、ということです。少し補足すると、私が話をする大企業の経営者たちは、「定期昇給(定昇)で毎年2%程度、実質賃金が上がれば十分だ」と考えていて、ベースアップは物価の上昇分に応じて調整するものと捉えているようです。
過去四半世紀、日本はゼロインフレが続き、ベアもゼロ、つまり、実質的には「ゼロベア」の状態が続いていました。その結果、実質賃金の上昇率もゼロのままだったのです。
ここ数年は物価が上昇している一方で、ベアがそれに追いつかず、実質賃金が下がる局面が続きました。今後しばらくは、物価上昇をやや上回るベアが続くかもしれません。
しかし、最終的にインフレ率が2%で安定したとしても、それに合わせてベアが2%にとどまるのなら、やはり実質的には「ゼロベア」のままとなり、実質賃金の上昇もゼロのままではないでしょうか。
仮にインフレ率が3%に達したとしても、3%のベアで調整されるだけで、「実質ゼロベア」という構造は変わらず、実質賃金の上昇率はゼロのままですかね。
企業は「2割」賃金を上げられる
唐鎌:もしも「ゼロインフレ・ノルム」や「実質ゼロベア・ノルム」といった足かせがなかったら、企業はどれくらい賃上げできると思いますか。
河野:過去四半世紀で、時間当たりの生産性は3割も向上しています。これを踏まえれば、企業は今よりも2割ほど賃金を引き上げられるはずだと思っています。
もちろん、賃金が急激に上がると、物価と賃金が互いに連鎖して上昇するスパイラルが生じ、マクロ経済全体に悪影響を及ぼす可能性があります。ですから現実的には、インフレ率を確実に上回る水準での賃上げを、安定的かつ継続的に進めていくべきでしょう。
翻って、現実には、労働組合(連合)が求めている5%台の賃上げ率の中には、毎年自動的に上がる定昇の約2%弱が含まれています。これを除くと、賃上げ要求は3%台にとどまります。
一方で、最近のインフレ率は3%程度ですから、実質賃金の上昇幅はごくわずかにすぎません。要求水準としては、あまりにささやかすぎますよね。大企業の経営者だけでなく、労働組合の側も「実質ゼロベア・ノルム」に侵されているということです。
トランプ関税の影響で2026年は賃上げができない、なんていうような大企業の言い分に納得していては、絶対に駄目ですね。
唐鎌:なるほどです。2024年11月、アメリカのボーイング社で起きたストライキでは、4年間で38%という大幅な賃上げで妥結しました。しかし、赤字で苦境に陥っている自分の会社に対して4割の賃上げを要求するという行為は、日本ではちょっと想像しにくいですよね。
それがカルチャーであれノルムであれ、日米の賃金ギャップが縮まる日が将来的に来るといいのですが……。