遙洋子、伊東市長問題で「女性のリーダーはボコボコにされる」発言に元リク女性ライターが憤怒…「むしろ女性差別を助長する」4つの大問題

フジテレビ系「サン!シャイン」でタレントの遙洋子氏が伊東市の田久保真紀市長について次のように発言した。「女性のリーダー、こんなボコボコにされるんだというメッセージが若い女性に伝わる」。この言葉が放送されると、SNSやネット上で大きな炎上が起きた。批判の多くは「市長が問題視されているのは学歴詐称であり、女性だからではない」という内容であった。専門学校卒からキャリアアップを重ねてリクルートに8年在籍した後、国会議員の公設秘書も務めたライターの村上ゆかり氏は「擁護のつもりで語られただろう遥氏の発言は、かえって女性のキャリア形成を阻害する危険をはらみ、きわめて危険な発言だ」と批判する。村上氏が解説するーー。
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「女性だから叩かれる」というすり替え
伊東市長の問題の始まりは学歴記載である。田久保市長は市長選挙の際に「東洋大学法学部卒業」と経歴を公表した。大学側の調査で実際は除籍で卒業していないことが判明した。本人は「卒業したと思い込んでいた」と説明したが、選挙公報の記載は事実と異なっていた。議会は地方自治法に基づき百条委員会を設置し、証人尋問や資料提出を求めて真相を調べた。調査が進むにつれて説明の不十分さが明らかになり、議会の不信感は高まった。2025年9月1日、伊東市議会は市長不信任決議を全会一致で可決した。田久保市長は辞職を拒み、9月10日に議会を解散した。議員は全員失職し、新たに市議会選挙が行われることになった。新しい議会が再び不信任を可決すれば市長は失職となる。
こうした経緯を踏まえると、問題の核心は市長自身の学歴詐称である。それにもかかわらず、遙氏の発言は「女性だから叩かれる」という一般化にすり替えられた。ここにいくつかの論点が生まれる。
まず一つ目の論点は、責任の所在の曖昧化である。批判されているのは市長個人の虚偽記載である。これを「女性だから叩かれる」と言い換えると責任の焦点がぼやける。例えるなら、学校のテストでカンニングをした生徒が退学処分を受けたときに「自分が女子だから厳しい処分を受けたのだ」と主張するようなものである。処分の理由は不正行為であり、性別は無関係だ。このように責任の所在を性別に結びつける行為は、女性はすぐに「女性だから」という言い訳で責任逃れをするかのような印象を与える上に、問題事案そのものの重みや責任が薄れてしまう。
「女性は弱い」という刷り込みの強化
ネットのコメント欄を見ると、この一つ目の論点によって大炎上をした可能性が最も高いと感じる。
二つ目の論点は、「女性は弱い」という刷り込みの強化である。「女性リーダーはボコボコにされる」とあえて発言したことで、「女性」は挑戦すれば必ず叩かれるという印象を与えてしまい、リーダーを目指す意欲をそぐ。心理学ではステレオタイプ脅威という現象が知られているが、遥氏の発言はまさにこのステレオタイプ脅威が働いてしまう恐れがある。ステレオタイプ脅威とは、ある集団が「不利だ」と繰り返し言われることで、その集団の当事者が本来の力を発揮できなくなる。
例えば、「女子は数学が苦手だ」と繰り返し言われ刷り込まれた環境で女性が数学の試験を受けると、その女性が本来できるはずの問題も解けなくなる事例が報告されている。同じように「女性リーダーは叩かれる」と繰り返されれば、政治や組織のトップを目指す女性は自ら制約をかけてしまう可能性が高い。マラソンに出場しようとする女性選手に「女性は途中で倒れる」と何度も言い聞かせるようなものであり、本人が走る前から気持ちで負けてしまう状況を作り出し、女性の活躍を阻害する結果を生む恐れがある。
正当な評価の歪曲だ
三つ目の論点は正当な評価の歪曲である。市長の能力や適性は市政運営の成果や説明責任の果たし方で評価されるべきである。虚偽記載という事実があれば、その責任を追及するのが本来のあるべき姿だ。それを「女性だから叩かれている」と言ってしまうと、評価の基準が性別に置き換わり、正当な判断が歪められてしまう。
この「正当な評価の歪曲」が女性にもたらす不利益は極めて大きい。まず、女性リーダーが成果を上げても正当な評価を受けず、性別の色眼鏡で評価される危険がある。努力や実績が過小評価され、同じ行為でも男性なら成果と見なされることが女性の場合は「偶然」や「周囲の助け」と片付けられる可能性もあるだろう。さらに、女性自身の意欲を損なう点も挙げられる。自らの努力が公平に評価されないと感じれば、責任ある立場に挑戦する動機を失い、結果的にキャリア形成の道を閉ざす結果となる。また、女性が何か失敗等をおかした場合に、それを指摘されず「女性だから」と周囲に諦められてしまうと、成長する機会を失う恐れさえあるのではないか。女性が能力に基づいて正当に判断されない社会は、公平さを欠き、結果的に女性も男性も不利益を被る。
女性差別を助長する危険性
四つ目の論点は、差別を助長する危険である。つまり、個人の問題行為が女性集団全体の能力不足と結び付けられ、女性全体の挑戦機会を狭めてしまう恐れがある。例えるなら、一人の選手がルール違反をしたことを理由に「この競技は女子には向かない」と大会参加を禁じるようなものである。これは擁護どころか逆効果である。研究でも同様の警告が示されている。
経済学誌『The Economic Journal』に掲載されたChakrabortyらの研究は「女性リーダーは強い主張や権限行使を行うと『バックラッシュ』を受けやすく、その評価は男性リーダーに比べて不当に低くなる」と述べている(Chakraborty et al., 2024, Gender and Leadership in Organizations: The Threat of Backlash)。また、Tremmelらの研究は「女性リーダーが社会的に期待される『女性らしさ』に沿わないとき、協調性の欠如と見なされ、正当に成果を認められない傾向がある」と指摘している(Tremmel et al., 2023, Gender stereotypes in leadership)。これらの知見は、性別を根拠にした言説が実際に女性への不当な評価や昇進機会の阻害につながることを裏付けている。したがって「女性は叩かれる」という表現は、女性個人を守るどころか、社会全体に「女性はリーダーに不向きだ」という誤った認識を浸透させ、女性が公正に活躍できる環境を遠ざける危険をはらんでいる。
事実の検証を経ていない「認知のゆがみ」
遙氏の発言には女性リーダーを支えたいという意図が込められていただろうと思う。しかし、遙氏の発言には「女性リーダー=叩かれやすい」という前提が含まれており、これは事実の検証を経ていないままに作られた認知の枠組み、つまり「認知のゆがみ」があったと考えられる。しかし今回の伊東市長の問題は、学歴詐称という明確な行為であり、批判の理由は性別ではなく虚偽記載そのものである。それにもかかわらず「女性リーダーだから叩かれている」と一般化してしまうと、現実に存在する批判の根拠を性別に置き換えてしまう。このような思考の流れは心理学でいう「過度の一般化」や「原因のすり替え」に近い。
遥氏の発言はかえって女性のキャリア形成を阻害
実際の研究でも、性別を強調する先入観が認知のゆがみを生み、出来事の解釈を変えてしまうことが確認されている。たとえばTremmelら(2023)の研究では「女性リーダーが評価される際、事実よりも性別のステレオタイプに沿った枠組みで判断されやすい」と指摘されている。つまり、成果や失敗の原因が性別に引き寄せられて説明される傾向がある。遙氏の発言はまさにこの枠組みに基づいていたと考えられる。本人は女性リーダーを擁護したかったのかもしれないが、「批判の根拠が女性差別にある」という認知のゆがみを前提に語ったことで、結果的に問題の本質を見誤り、大炎上に発展してしまったのだ。
遥氏の発言はかえって女性のキャリア形成を阻害し、正当な評価を歪め、差別を助長する危険性があるのではないか。伊東市長が批判されている理由は、市長の性別が女性であることとは何ら関係がない。「女性がまた叩かれた」という発言そのものが女性にとって大きな機会損失になる。女性だって失敗したら正当に批判されるべきだ。すぐに「女性だから」と性別を持ち出し擁護するなど、少なくとも筆者は女性として極めて不本意である。正当な評価があるからこそ、モチベーションが生まれるのだ。正当な信頼できる評価があれば失敗しても気づき、学び、立ち上がることで自立しスキルが磨かれ蓄積されていく。女性のためにこそ、今の日本社会に必要なのは事実と責任を性別と切り分け、根拠もなく「女性だから」と安易に結び付けない姿勢である。それが結果的に女性の挑戦を後押しし、女性の健全なキャリア形成につながるだろう。遥氏は今回の炎上を「女性だから叩かれた」と誤解せず、批判を真摯に受け止めてほしいと切に願う。