“無診察”診断書が武器に変貌…「副流煙で健康被害を受けた」と訴えられた夫婦vs禁煙学会の9年の闘い

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  2017年、横浜市内に住む男性が、居住する部屋の一階上の家族から訴えられた。限られた空間でわずかに喫煙するだけだったが、階上の住民から「健康被害を受けた」として高額の4500万円もの損害賠償を求められたのである。しかしその裁判は男性の勝利に終わり、男性らが起こした反訴で裁判所は「医師による無診察での診断書作成の違法性」を指摘した。この裁判を通じて浮かび上がったのは、医師の診断書が持つ強大な力と、その使い方をめぐる深刻な問題だ。経済誌プレジデントの元編集長で作家の小倉健一氏が、その背景を解説するーー。

目次

隣人トラブルが一枚の診断書で訴訟に「横浜副流煙事件」

 もし、あなたの隣人が「あなたの家の匂いで体調を崩した」と、医師が書いた診断書を手に、ある日突然訴えてきたらどうするだろうか。喫煙の煙、柔軟剤の香り、ペットの匂い。現代社会の暮らしには、隣人との間でトラブルになりかねない要素が数多く存在する。

 そんな時、ある政治的目的をもった医師の診断書が「絶対的な証拠」として重くのしかかってしまった。横浜市で9年近く続いた「横浜副流煙事件」は、まさに診断書が武器として使われた象徴的な事例であり、その闘いの結末は、一般市民の平穏で平和な日常を守るための重要な教訓を示している。

 事の発端は2017年だった。ミュージシャンの藤井将登氏が、自宅の防音対策を施した音楽室で1日数本のタバコを吸っていたところ、8メートル離れ、住んでいる階層すら違う斜め上部屋に住むA家から「副流煙で健康被害を受けた」として、約4500万円もの高額な損害賠償を求める訴訟を起こされた。A家が証拠として提出したのが、当時、日本禁煙学会の理事長だった作田学医師が作成した「受動喫煙症レベル4」や「化学物質過敏症」と記された診断書だった。この一枚の紙が、藤井夫妻を長い苦しみの淵へと突き落とした。

勝訴より価値ある敗訴──夫妻は勝利を宣言した

 ちなみに、受動喫煙症レベルとは禁煙学会の独自基準で、「レベル5」が悪性腫瘍、致死性の心筋梗塞など。「レベル4」はその一歩手前の症状ということになる。

 この裁判では、A家の訴えは棄却され藤井将登氏の完全勝訴となった。その後、藤井夫妻は作田医師とA家を相手取り、「訴える権利を不当な嫌がらせ目的で使った」として反訴に踏み切った。そして2025年8月20日、東京高等裁判所は藤井夫妻の訴えを退ける「棄却」の判決を下した。形式上、藤井夫妻の敗訴を意味する。

 ところが、藤井夫妻はこの結果を「最高の判決だ」と評価し、心からの喜びを表明した。訴えに敗れた者が、なぜ勝利を宣言するのか。その謎を解く鍵は、判決文の中に記された、一見地味だが極めて重い意味を持つ言葉にあった。この判決は2025年9月3日に上告されることなく確定し、日本の司法の歴史に確かな一石を投じることになった。

“敗訴”は織り込み済み 高すぎる『訴権濫用』のハードル

 藤井夫妻の反訴が棄却されたのは、ある意味で予想された結果だった。夫妻が問うた「訴権の濫用」とは、裁判を起こす権利を相手への攻撃や圧迫といった不当な目的で使う行為を指す。日本国憲法は、誰にでも「裁判を受ける権利」を保障しているため、裁判所が「あなたの訴えは権利の濫用だ」と認定することは、その基本的人権を制限することにつながりかねない。そのため、日本の裁判の歴史上、訴権の濫用が認められた事例は数えるほどしかなく、そのハードルは極めて高いことで知られている。藤井夫妻も、金銭的な賠償を勝ち取ることが難しいと理解した上で、別の目的のためにこの困難な闘いに挑んだのだった。

 藤井夫妻が本当に求めていたのは、賠償金ではなく、作田医師が作成した診断書がいかに問題の多いものであったかを、公に認めさせることだった。そして、東京高裁の判決文は、その期待に見事に応えていると言える。

無診察での診断書作成 医師法20条違反を改めて断罪

 判決文が指摘した一つ目の重要なポイントは、無診察での診断書作成の違法性だ。作田医師は、A家の娘を一度も直接診察することなく、本人の訴えだけを鵜呑みにして診断書を作成していた。医師法第20条は、医師が自ら診察しないで診断書を交付することを固く禁じている。最初の裁判でもこの点は違法と認定されていたが、今回の高裁判決は「被控訴人A子を診察しないで同人についての診断書を作成したことは、医師による診断書作成における医師法20条の規律に反するといい得る」と、改めてその違法性を明確に断じた。

 作田医師側は「診断書ではなく意見書だ」といった主張をしていた。が、裁判所はその言い分を認めず、医師として最も基本的な義務に違反した事実を動かしがたいものとした。判決文が示した二つ目の、そして最も画期的なポイントは、診断書の「目的の逸脱」に踏み込んだ点だ。判決文には「控訴人将登に喫煙をやめさせるために診断書を作成したことは、…診断書の趣旨・目的を逸脱する余地がある」という一文が盛り込まれた。この言葉こそ、藤井夫妻が9年近くの闘いの果てに勝ち取った最大の成果と言える。

 診断書は本来、患者の病状を正確に診断し、治療方針を立てるという医療目的のために作成されるべき公的な文書だ。ところが、作田医師の診断書は、A家の訴えをそのまま書き写し、「1階のミュージシャンが原因」といったように、まるで犯人を特定するような記述がなされていた。裁判所は、診断書が治療のためではなく、「相手に喫煙をやめさせる」という、政治目的を達成するための「武器」として使われたことの不当性を鋭く指摘したのだ。医師が中立的な立場を忘れ、自らの思想や信条のために診断書の内容を歪める行為は、診断書制度そのものの信頼を根底から揺るがす。今回の判決は、そうした危険な行為に司法が明確に「ノー」を突きつけた瞬間だった。

“金銭より社会的ルール”藤井夫妻が貫いた9年の戦い

 この司法判断が2025年9月3日に確定したことの重みは計り知れない。確定判決とは、もうそれ以上争うことができず、その内容が法的な拘束力を持つ最終結論となることを意味する。つまり、「無診察での診断書作成は違法であり、診断書を医療以外の目的で使うことは不適切である」という見解が、示されたということだ。

 藤井敦子氏は、自身のSNSで「敗訴しても質の良い文言が判決文に書かれていて欲しい」と、闘いの初期からその戦略を明かしていた。金銭的な勝利よりも、社会的なルールを確立すること。それこそが、夫妻の揺るぎない目標だった。判決が確定した日、敦子氏は「上告期限過ぎ、確定しました!」と、安堵と達成感に満ちた言葉を投稿した。9年という長い歳月、夫妻は筆舌に尽くしがたい苦しみを味わった。将登氏の音楽室は、防音対策も換気設備も万全に整えられていた。禁煙を試みた期間でさえ、A家は「まだ臭う」と主張し続けた。そうした理不尽な状況の中で、夫妻の心の支えとなったのは、多くの支援者の存在だった。メディア関係者、法律家、医師、そして同じように理不尽なトラブルに苦しむ人々が、夫妻の闘いに共感し、声を上げ続けた。

医師の診断書は絶対ではない──違法性や逸脱を厳しく問う司法判断

 今回の確定判決が持つ社会的な意義は、極めて大きい。現代社会では、受動喫煙や化学物質過敏症、柔軟剤の香害といった、精神疾患との関連が疑われ、また客観的な科学的証拠を示すことを自称被害者側が行うことなく訴えを続けるといったトラブルが増加している。そうした中で、医師の診断書はしばしば絶対的な証拠として扱われ、一方の主張を鵜呑みにした診断書が、もう一方の当事者を社会的に追い詰める凶器となり得る危険性をはらんでいた。

 今回の判決は、その「診断書万能主義」に待ったをかけた。医師が作成した診断書であっても、その作成過程に違法性があったり、本来の目的から逸脱していたり、内容の科学的根拠が乏しかったりする場合には、その証拠としての価値が疑われることを明確に示したからだ。この判決は、今後、同様のトラブルに巻き込まれた人々が自らを守るための強力な「防波堤」となるだろう。安易な診断書によって、一方的に加害者のレッテルを貼られる理不尽を防ぐための、重要な司法の先例が築かれたのである。

一市民の闘いが示した「司法の言葉」の力

 この判決は、医療界全体にも大きな課題を突きつけている。特に、日本禁煙学会のように、特定の社会的・政治的な目的を明確に持つ団体に所属する医師が診断書を作成する際には、より一層の客観性と中立性が求められることになる。診断書は、個人の思想を実現するための道具ではない。一人の人間の人生を左右しうる重い責任を伴う公的な文書であることを、全ての医療関係者は再認識する必要がある。

 藤井夫妻の9年間の闘いは、一個人の名誉回復を求める私的な争いから、社会の公正さを問う公的な闘いへと昇華した。形式上の敗訴と引き換えに、夫妻が手にしたのは、未来の誰かを理不尽な攻撃から守るための、確かな司法の言葉だった。

 一市民の諦めない心が、社会をより良い方向へ動かす力になる。横浜副流煙事件の確定判決は、その尊い事実を私たちに力強く教えてくれている。

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この記事の著者
小倉健一

1979年生まれ。京都大学経済学部卒業。国会議員秘書を経てプレジデント社へ入社、プレジデント編集部配属。経済誌としては当時最年少でプレジデント編集長就任(2020年1月)。2021年7月に独立。現在に至る。 Twitter :@ogurapunk、CONTACT : https://k-ogura.jp/contact

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