「自維連立なら前原総務大臣か」経済誌元編集長が大胆分析!経産大臣、国交大臣は…日本経済はどう変わるのか

高市早苗総裁の誕生、そして公明党の連立離脱により永田町では大政局を迎えている。自民党が連立相手を大急ぎで捜す一方で、立憲民主党は政権交代を目論む。しかしここにきて日本維新の会の連立入りの可能性が急浮上した。仮に自維政権がうまれた場合、どんな内閣になるのか。その時、日本経済や国民生活、そして株式市場にどのような影響を与えるのか。経済誌プレジデントの元編集長で作家の小倉健一氏が解説するーー。
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「副首都構想」関連銘柄が市場で動く
秋風が永田町を吹き抜ける頃、日本の政治は新たな迷走の季節を迎えた。2025年10月16日、自民党の高市早苗総裁が首相の座に就いた。しかし、その船出は盤石とはほど遠い。長年の盟友であった公明党は連立を去り、高市政権は少数与党という荒波にいきなり漕ぎ出すことになった。権力の座を維持するため、高市総理が手を差し伸べたのは、これまで「改革」を掲げて自民党と対峙してきたはずの日本維新の会であった。
この動きを、国民民主党の玉木雄一郎代表は「二枚舌」と吐き捨てた。直前まで野党間の連携を模索していた維新が、手のひらを返したかのように自民党との連立協議に乗り出したからだ。玉木代表は自身のYouTubeチャンネルで、維新の豹変に対する不信感を隠さなかった。
「つい数時間前まで藤田共同代表と、野党の統一候補を目指して、結構藤田さんも真剣に議論していただいてたなと思っていたんですけど、なんだそれはもう自民党と連立で握ることが決まってたのか、みたいな感じで、ちょっとなんか、二枚舌みたいな感じで扱われて、ちょっと我々としては残念だなと正直思いました」
この言葉は、今回の連立劇が政策や理念の一致ではなく、ただの数合わせと権力欲の産物であることを鋭くえぐり出している。高市総裁が講演で語った「絶対になってやると思っている首相になれたら」という剥き出しの執念と、維新の権力への渇望が交錯した地点に、これから誕生するであろう奇怪な政権の姿が浮かび上がってくる。その内実を、仮に予想される閣僚の顔ぶれから冷徹に解剖してみよう。
仮に、維新への配慮の象徴として総務大臣のポストが用意されるとすれば、その椅子に座る人物として、日本維新の会の前原誠司共同代表の名前が浮かび上がってくるのは、ある意味で必然かもしれない。総務省は地方分権や行政改革を司る官庁であり、維新が看板政策として掲げる「副首都構想」の実現や統治機構改革を推進するには、まさに喉から手が出るほど欲しいポストであろう。
副首都構想を巡っては自民党と維新の連立に向けた政策協議が開始したのを受け、株式市場で関連銘柄の動きが激しくなった。副首都もよって首都のバックアップ機能を備えるエリアを整備するほか、首都圏とは異なる経済圏をつくることで日本の成長力を高める狙いがある。投資家からの期待も強まっているといえよう。
「身を切る改革」かくも軽く
しかしもしこの人選が現実のものとなれば、それは日本の政治史における壮大な皮肉であり、一種のブラックユーモアでさえある。前原誠司という政治家は、その輝かしい経歴とは裏腹に、政界で「疫病神」「政党クラッシャー」という不名誉な異名をほしいままにしてきた人物だからだ。民主党代表時代には党勢を傾かせ、民進党では分裂の引き金を引き、希望の党をあっという間に瓦解させた。自身で立ち上げた会も結局は維新に吸収された。そして、その前原氏が共同代表として迎え入れられた維新もまた、支持率の低下と選挙での後退という「前原効果」のジンクスから逃れられていない。
これはまるで、沈みかけた船を救うために、行く先々で船を沈めてきたと噂される船乗りを、わざわざ船長室に招き入れるようなものではないか。もし維新がこの人事を実現させるなら、「身を切る改革」というスローガンは、かくも軽く、権力の甘い蜜の前ではたやすく溶けて消えてしまうものだったのだと、自ら証明することになる。
維新は両院議員総会で、連立協議について執行部一任を決定した。その場で前原氏は記者団にこう語ったという。
「小さな政党でもテコとなって政策を実現できるのであれば、しっかりと飛び込んで覚悟を持ってやりきるという思いを共有できた」
経産相は…投資家の注目集まる「ネオ・アベノミクス」
その「覚悟」が、国民のための政策実現に向けられているのか、それとも自らが所属する政党を再び衰退へと導くための覚悟なのか。もし前原誠司総務大臣が誕生すれば、改革を掲げた政党が、自らの存在意義を破壊する道化師に未来を委ねるという、喜劇の幕開けとなるかもしれない。
次に、経済産業大臣のポストには、どのような人物が考えられるだろうか。高市氏の経済政策に関しては株式市場からの注目も高い。彼女が掲げる経済政策が、かつての「アベノミクス」をさらに推し進める「ネオ・アベノミクス」となるという期待から、総裁就任後に日経平均は初の4万8000円台にのった。
しかしもし高市政権が、発足の原動力となった論功行賞を優先するならば、自民党の松島みどり衆議院議員の名前が浮上してくる。TBS系のニュースでは、松島氏が高市氏の隣に陣取り、議員への電話攻勢をかける姿が報じられ、彼女自身もSNSで「最後まで高市さんの議員票積み上げに奮闘」したと誇らしげに語っている。
日本の経済政策やエネルギー問題、そして国際的な競争力の維持という重責を担う経済産業大臣のポストが、総裁選における個人的な忠誠心と貢献度によって決められる。
経済成長につながりにくいハコモノ行政
もしそのような人事がまかり通るなら、この国はいつから、国家の重要政策を担う人材を、まるで戦国時代の武将が手柄を立てた家臣に領地を与えるかのように分配するようになったのだろうか。
松島氏が地盤とするのは、筆者の住む両国、墨田区なのであるが、どこの祭りにも出席しているのではないかというぐらいに、地元活動に勤しんでいる。その甲斐あっての選挙の強さなのであろうが、スピーチを聞いても、私があれを作った、これを作ったという、公共事業誘導、ハコモノ行政を誇るのである。こんなことを日本全国で続けたら、日本は滅んでしまう。
公共事業誘導やハコモノ行政が経済政策として間違っているとされるのは、主に費用対効果の低さと経済構造の歪みのためである。需要が不明確な公共施設は税金の無駄遣いとなり、その維持管理費が長期的な財政負担となる。また、建設業に偏重した公共投資は、他の成長産業への資源移動を妨げ、経済構造の硬直化を招く。景気刺激効果も一時的であり、持続的な経済成長には繋がりにくい。
高市総裁の「なんでもやる」という姿勢は、政策実現に向けた力強さの表明などではない。権力の座に就き、その地位を維持するためならば、縁故主義も、お友達人事も、ためらわないという決意表明に他ならない。仮に松島氏が起用されるようなことがあれば、それは女性閣僚を増やすという体裁を整えるための数合わせという側面もあろうが、多様性の尊重などという高尚な理念とは無縁だ。むしろ、能力主義を否定し、政治を私物化する体質を、ジェンダー平等の衣で覆い隠す欺瞞でしかない。そのような人事は、高市政権が国民全体の利益ではなく、内輪の論理を最優先する内向きな政権であることを、何よりも雄弁に物語ることになるだろう。
森氏の威光が及ぶインフラ事業
そして、国土交通大臣のポストに目を向ければ、そこには自民党の「古い体質」への回帰を象徴するような人選が現実味を帯びてくる。例えば、自民党の佐々木紀衆議院議員のような人物の起用である。佐々木氏は、政界に今なお絶大な影響力を持つ森喜朗元総理の地元後継者であり、その政治キャリアは森氏の威光と不可分であり、「ミニ森」とも呼ばれている。このポストに彼が就くというシナリオは、森氏の威光が及ぶインフラ事業を円滑に進めるための露骨な人事と見なされても仕方がない。
ここで問われるべきは、連立を組む維新の会の姿勢である。「しがらみのない政治」を標榜してきた維新は、こうした自民党の古い体質をこそ、厳しく批判すべき立場にあったはずだ。しかし、閣僚ポストを分け与えられ、権力の中枢に加わることで、維新は自民党の旧態依然とした政治の共犯者、あるいはそれを容認する追認者へと成り下がる。
自民党の劣化コピー
維新との連立は、自民党を浄化するどころか、むしろその古い体質に「改革政党のお墨付き」を与える役割を果たしてしまう。佐々木氏のような人物が入閣する未来は、自維政権が「新しい政治」ではなく、自民党政治の最も醜い部分への先祖返りであることを象徴している。
仮に、前原、松島、佐々木といった顔ぶれが閣僚として並ぶような事態になれば、それは何を意味するのか。それは、政治から理念と言葉が失われた、荒涼とした風景である。「改革」「経済成長」「復興」といった美辞麗句は、もはやその意味を失い、権力闘争を糊塗するための空虚な記号として宙を舞うばかりだ。自民党は権力を維持するために過去のしがらみに回帰し、維新は権力を得るために自らの改革の旗をあっさりと手放した。これは「第二自民党」の誕生などではない。自民党の劣化コピーと、自らの存在意義を否定した改革政党の残骸が寄り集まった、国民不在の権力共同体である。
もちろん、こうした流れに疑問を呈する声が皆無なわけではない。信義を重んじ、維新の変節を嘆いた玉木代表の言葉や、党内の拙速な連立協議に戸惑いを見せる維新議員の声は、政治に良識を求めるささやかな抵抗として記録されるべきだろう。
だが、大勢は決した。高市総裁の権力への執念と、維新の野合が生み出したこの政権は、どこへ向かうのか。言葉がその力を失い、政治が単なる権力ゲームと化した時、その先に待っているのは、社会の活力と信頼の喪失である。この迷走する内閣の行く末を、我々有権者は冷徹な目で見つめ続けなければならない。日本経済はどこへ向かうのか。