「態度悪すぎ」という声もあるが…与党維新で初の政治とカネ問題!維新・藤田共同代表「逆ギレ」デザインなめすぎ発言と組織・企業の謝罪論

連立入りした日本維新の会が騒がしい。しんぶん赤旗が藤田文武共同代表の「公金還流疑惑」を報じ、党の創設者である橋下徹氏が赤旗と一緒になって藤田共同代表を猛批判する。そんな中で注目されるのは藤田共同代表の「逆ギレ」ともいえる対応手法だ。会見で記者からでた、なぜ秘書の業務ではなく会社に発注したのか、という問いに対して「『秘書やったらチラシすぐ発注してできるやろ』みたいな話あると思うんですけど、デザイン業務なめすぎですね、ハッキリ言って」「無形の付加価値を提供している業者さんを、バカにしすぎた議論だと思います」と応酬した。こうした様子にネットでは「態度悪すぎ」という声もあがったが、経済誌プレジデントの元編集長で作家の小倉健一氏は評価する。数々の企業の不祥事を取材してきた小倉氏は「組織の安易な謝罪はかえって誤解を招く」とする。小倉氏が詳しく解説するーー。
目次
逆ギレと報じられたが、「正当性への自信の表れ」
11月4日、日本維新の会の藤田文武共同代表は、公設秘書が代表を務める会社への公金支出疑惑に関する記者会見で、一部の報道に対し明確な言葉で反論した。「何がおかしいんですか?」「一般的な商習慣を全く知らないだけだと思います」といった藤田氏の発言は、時に「逆ギレ」と報じられたが、その裏には、揺るぎない信念と、法的な適正性への強い確信があったように見える。
藤田氏の立場は一貫している。弁護士による確認を経て、「法的にはどこから切り取っても適正」であり、違法性は一切ない。その上で、無用な誤解を避けるため、今後は秘書の会社への発注を停止するとの方針を示した。党代表である吉村洋文氏も、同様の発注を禁止する内規改正を推進し、藤田氏に責任金銭を課すという迅速な対応を見せた。これは、法的な瑕疵がないことを前提としつつも、より高い透明性を追求する維新の姿勢を示すものと言えよう。
政治家には、国民の税金を預かる者として、その使途について厳格な説明責任が課せられる。しかし、説明責任の果たし方は一つではない。曖昧な謝罪や安易な妥協が必ずしも国民の信頼を得るとは限らない。時には、誤解や不当な批判に対し、毅然とした態度で真実を主張し、「否認」することが、政治家としての真摯な態度として受け止められることもあるだろう。
研究結果は…組織の否認と謝罪、どっちが信頼回復につながるのか
藤田氏の会見における発言は、まさにその一例であり、自身の潔白と法的な正当性への強い自信が表れたものと解釈できる。
ここで、組織の信頼回復に関する学術的知見は、藤田氏の「否認」戦略に新たな光を当てる。2017年8月に学術誌「Public Relations Review」に掲載された論文「Denial outperforms apology in repairing organizational trust despite strong evidence of guilt」(「否定は謝罪を上回る:強い有罪証拠があっても組織の信頼を回復する」マッテオ・フオーリ他)は、企業が「誠実性に基づく違反」で告発された際の信頼回復戦略について興味深い分析を行っている。
この論文は、否定すること(否認)と謝罪すること(アポロジー)のどちらが、組織の信頼回復に効果的かを探る実験結果を報告した。
論文は、過去の研究が謝罪の有効性を強調してきたことを認めつつも、個人的な信頼修復に関する実験では、特定の状況下で否認が謝罪を上回る結果が出ていることに着目している。そして、企業レベルでの信頼回復において、否認が謝罪よりも効果的であるか否か、また証拠の強さがその効果にどう影響するかを検証した。
証拠が弱い場合、謝罪よりも否認の方が信頼回復に成功
実験の結果は示唆に富んでいる。「企業に対する証拠が弱い場合、謝罪よりも否認の方が信頼回復に成功する」と論文は結論付けている。さらに、「我々の仮説に反して、強い証拠に直面した場合でも、否認は企業の誠実性や慈悲に関する認識を修復する上で謝罪を上回り、また認識された能力や信頼意図の回復においても謝罪と同程度に効果的であることが判明した」と述べている。これは、「オープンで正直な態度が、短期的に組織にとって防御的戦略よりも有害であるという『逆説的効果』の経験的証拠を提供するもの」だと論文は指摘する。
この研究は、必ずしも謝罪が最良の戦略ではないことを示している。特に、自身に非がない、あるいは法的な問題がないと確信している場合、安易な謝罪はかえって誤解を深め、不必要な責任を負うことにも繋がりかねない。藤田氏の会見での「否認」は、この学術的知見と重なる部分が多い。彼は、法的な適正という確固たる根拠に基づき、自身の潔白を主張した。
組織は不当な攻撃にも謝罪するべきなのか
これは、曖牲な言葉で事態を収束させようとするのではなく、事実に基づいた毅然とした態度で臨む、政治家としての責任の果たし方と見ることもできる。
藤田氏が会見で示した「一般的な商習慣」という言葉も、この文脈で理解することが可能である。彼にとって、自身の行いは、業界内では広く行われている慣習に則ったものであり、特段問題視されるべきことではないとの認識があったのだろう。この主張は、疑惑を巡る「証拠の強さ」を相対的に弱めようとするものではなく、むしろ自身の行為の正当性を、実務的な観点から説明しようとする試みであった。批判的な報道を「偏向」と断じたのも、事実に基づかない、あるいは特定の意図を持った情報操作に対し、明確に異議を唱える姿勢と受け取れる。
もちろん、政治家が国民からの信頼を得るためには、丁寧な説明や共感を得る努力が不可欠であることは言うまでもない。しかし、それらが「不当な批判」や「事実誤認」によって歪められるべきではない。藤田氏の会見における言動は、もしかしたら、そのような状況下で、政治家として自身の信念と法的な正当性を守り抜こうとする、ある種の「戦い」であったのかもしれない。
「逆ギレ」という新しいタイプの対応
我々は往々にして、政治家に対し、常に穏やかで丁寧な態度を求める傾向がある。しかし、時には、信念を貫き、不当な攻撃に対し正面から反論する「強さ」も、政治家には必要とされる資質ではないだろうか。藤田氏の「否認」は、安易な謝罪に流されず、自身の行為に責任と確信を持っていたからこそ可能であったと言える。
政治の世界では、法的な適正性を追求することと、国民感情に寄り添うことのバランスが常に求められる。藤田氏のケースは、この複雑なバランスの中で、彼がどのような選択をしたのかを示している。組織として、より高い透明性を追求するために内規を改正する一方で、藤田氏個人としては、自身の行為の正当性を主張し、不当な批判には屈しない姿勢を示した。これは、多様な価値観が交錯する現代において、政治家が取るべき選択肢の一つとして、十分に考慮されるべきではないだろうか。
藤田氏が示した、このある意味「逆ギレ」という新しいタイプの対応は、今後の政治における説明責任のあり方、さらには政治家とメディア、国民の関係性に、新たな視点をもたらすかもしれない。
一つの説明責任の果たし方として、今後評価されるべき
常に画一的な「謝罪」ばかりが求められる風潮の中で、法的な正当性を盾に、毅然として自身の立場を主張する「否認」という形でのコミュニケーションは、時に国民に対し、より明確なメッセージを届け、議論を深めるきっかけとなる可能性を秘めている。
最終的に、政治家への信頼は、その行動が法律に合致しているか否かだけでなく、その行動の背景にある信念や、困難な状況にどう向き合うかという姿勢によっても形成される。藤田文武氏の今回の「否認」は、単なる批判の拒絶ではなく、自身の信念に基づいた、一つの説明責任の果たし方として、今後評価されるべきである。彼の姿勢が、結果として維新の「身を切る改革」という理念をより強固なものとし、党全体の信頼性向上に寄与することを期待したい。
組織への信頼回復は、形式的な謝罪にとどまらず、事実に基づいた誠実な説明と、信念を貫く姿勢から生まれる。藤田氏の「否認」戦略は、その一つの形として議論を呼んだが、本質的には、法的な正当性を基盤とした透明性の高いコミュニケーションを追求する試みであった。この対応が、今後の政治における模範となるかどうかは、国民の評価に委ねられる。そして企業といった組織の謝罪論として大きな参考となる。