「国葬やったー!」「統一教会葬で送れ」…反安倍・親安倍の野蛮なツイート合戦に絶望するしかない日本人の民度
世界からの弔意は、日本国民に対する弔意でもある
安倍元総理の死に対し、政府が国葬を行うことを決定した。安倍元総理が死亡した日から数えて7日目の2022年7月14日、岸田総理が「安倍元総理の葬儀を今秋、『国葬儀』の形式で行うと発表したのに続き、22日には国葬を9月27日に行うこと、経費は全額国費で賄うことを閣議決定した。
安倍元総理の死亡直後から、「国葬にすべきか、すべきでないか」がネットやメディアを賑わせてきた。ツイッターでは反対の意を示すハッシュタグがトレンド入りしたかと思えば、世界中から寄せられる弔意を前に、賛意を示すだけでなく「外交の場」としての意味合いを強調する賛成意見もあった。
報道によれば安倍元総理を襲撃した犯人に「民主主義への攻撃」の意図はなく、自身の家庭を崩壊させた宗教と、つながりがあると犯人が見なした影響力の大きな相手への攻撃だった、とみるべき割合が大きい。だがそれでも、長く首相を務めた現役国会議員の、選挙演説中の死である。そのうえ銃撃され心肺停止、その後死亡に至る、一部始終が映像として全世界に報じられたことの衝撃は大きい。
世界からの弔意は、安倍元総理個人の功績や人間関係に対してのみ寄せられるものではなく、「第一次政権から数えれば8年8カ月も国政を担い、第二次政権では選挙で勝ち続けた、自らが選挙によって選び続けたリーダーの、壮絶な死」を経験した日本国民に対する弔意でもあることは知っておくべきだろう。
「普通」に議論できないのか
表向きは民主主義でも、その実自由選挙が実現しているとはいいがたいロシアなどで同様の事件が起きた場合に、外交儀礼以上の弔意が寄せられるものかどうか、考えてみる必要がある。
これに対して、「俺はアベを選んでなどいない」というのはあまりに子供じみた反応で、民主主義にのっとった政治を行うための手段として選挙を擁する以上、その結果は受け止めなければならない。
いうまでもなく、だからと言ってすべてに唯々諾々と従う必要はなく、国葬に反対するのも自由だ。また、国葬だからと言って、「国民全員の弔意を結集する」というたぐいのものではない。法的根拠や国費で賄うことの是非などは、むしろ反対派が様々な角度から検証してくれることを期待する。
国葬賛成派も、単に「反対派は安倍元総理が憎いから言っているだけ、反安倍のたわごと」と片付けるのではなく、こうした反対派の言い分を検証し、国葬挙行可能な理由や、やるべき理由を淡々と説明すればいい。国会であれ言論界であれ、「普通に」議論すればいい話だ。
賛成派の中には、国葬が決定した際に「おめでとうございます」「やったー、よかったですね」「絶対行きたい!」と喜び(?)を爆発させる不可解な書き込みも散見された。国葬はあくまでも葬儀であって、祝い事ではない。まるで「安倍晋三ソロライブ 武道館公演決定」の報でも受けたかのような反応には、正直絶句するほかなかった。