なぜ羽生結弦の”嘘”を流す人がいるのか「なんでこんなでたらめを…」姑息にも史実を歪める不都合な人に負けてはいけない

羽生結弦と同時代を生きているということは、本当に凄いこと
羽生結弦という「史実」がある。
羽生結弦という存在と、そのフィギュアスケートは21世紀の「歴史」である。
20世紀の始まりに近代バレエの幕を開け、バレエを芸術に昇華させたヴァーツラフ・ニジンスキーがそうであったように。21世紀の始まりにフィギュアスケートの革新を続ける羽生結弦というアスリートもまた、フィギュアスケートという芸術でニジンスキーと同様、歴史として後世語られることになる。
私たちはニジンスキーのバレエを見ることは叶わないが、僥倖にして羽生結弦のフィギュアスケートをこの目で見ている。かつてニジンスキーの革新ゆえに理解できず、誹謗中傷を繰り返す残念な人に対して声を上げた多くの芸術家や支援者と同様、羽生結弦の革新という歴史を共に歩むこともできる。私たちが羽生結弦と同時代を生きているということは、本当に凄いことなのだ。
善のないものは「偽史」となる
羽生結弦という「史実」が歴史を構成する。当たり前の話だが、その史実が歪めば歴史も歪む。歴史が改鼠されれば史実もまた、信用できないものになる。また伝説や神話とも分けなければならない。伝説には芸術的、文学的な「社会性」が必要になる。そして史実が伝説となり、遥かに長い年月を費やし、後世の人々によって新たに創り上げられるものが「神話」である。「神」とつくように、そこには「善」がなければならない。