人生の方向性が決まるのは「15歳」の理由…「何者にもなれなかった」と生き方を悔む中年たちに送る言葉

「『自分に合った生き方とはどんなものだろうか』ということは、少なくとも定年を迎えるまでには結論を出すべきですが、私はその年齢は15歳だと思っています」日本宗教連盟・理事であり、神道扶桑教・管長の宍野史和氏はそう語るーー。
※本稿は『運をつかむ心のほぐし方』(プレジデント社)から抜粋・再構成しています。
目次
自分はずるずると会社に残り、何者にもなれていない
ウルフルズが唄った「明日があるさ」という曲のなかに、こんなフレーズがあります。
会社をおこした奴がいる
会社に残ったオレがいる
あせることないさあせることないさ
自分に言いきかす
ここで歌われているサラリーマンが果たしてその後どのような人生を送ったのかはわかりませんが、歌詞にある通り、決して焦る必要はないと思うのです。 同僚のなかには独立し、自分の会社を持ち、成功を収めるような人もいることでしょう。そんな人を見るたびに、「自分はずるずると会社に残り、何者にもなれていない」と思い悩む中年は多いかもしれません。
定年まで会社で働けたということは、その生活が自分に合っていた
しかし、ものは考えようです。定年を迎えるまで会社に残っているということは、たとえそれが挑戦をしなかった結果だとしても、ある意味幸せではないでしょうか。
人生を左右するような大きな判断をしなくて済んだと考えることもできるのではないでしょうか。
人が大きな判断をするときというのは、ある決断に迫られているときです。何か自分にとって悪いことが起きていて、その状況を好転させるために大きな決断をせざるをえないのです。
現状に満足していながら、さらに上を目指してリスクを取る人もいるかもしれませんが、その数は多くはないでしょう。転職も独立も、いまいる場所が自分にとって良くないところだから、することです。定年まで会社で働けたということは、その生活が自分に合っていたのかもしれません。
「自分に合った生き方とはどんなものだろうか」
私のようなわがままな人間は人の下で働くようなことは無理だろうなと思った結果、様々な職種を経験しました。私も偉そうなことを言っておりますが、就職活動すらしたことがありません。
それは会社で働くという生活が自分には向いておらず、たとえ無理をして頑張ったとしても途中で苦しくなるだけだと分かっていたからです。
しかし、「自分に合った生き方とはどんなものだろうか」ということは、少なくとも定年を迎えるまでには結論を出すべきですが、私はその年齢は15歳だと思っています。
人の寿命がまだ短かったということも関係しているとは思いますが、かつて日本では男子は15歳で元服という儀式を迎え、一人前の人間として社会への仲間入りを果たしていました。
15歳という時期はひとつの人格が形成されるときでもあり、人生の方向性が決まる分かれ道でもあります。
15歳で好きだった相手は「好きだから好き」だった
たとえば恋愛においてもそうです。15歳のときに好きだった相手のことを思い出してみてください。おそらく、余計なことは考えずに、「好きだから好き」だったはずです。
しかし、年齢を重ねるごとに、余計な情報を取り込むごとに、本当に自分が望んでいることが何なのかわからなくなってくるのです。
自分は何が好きで何が嫌いか。何が得意で何が苦手か。どんな人生を歩んでいきたいのか。
それが「夢」に繫がっていくわけであり、15歳でそういったことが考えられる社会にしていかなくてはなりません。
しかし、正直いうといまの日本の社会ではそんな15歳はなかなか出てこないでしょう。私はその最たる原因が受験最優先の教育だと考えています。いまの学校 は、社会性を度外視し、子どもたちを非現実的な世界に押し込めているだけです。学校というシステムのなかでしかものを考えず、学校における価値観のみが、 子どもを支配してしまっているのです。それは「多様性」とはかけ離れたものであり、そんな場所に閉じ込められていては、自分の将来の姿を想像することなどできないでしょう。
諸悪の根源にあるのが、「6・3・3・4制」
日本では「ニート・引きこもり」が社会問題となっていますが、彼らのなかには、学校によって押し付けられた価値観に迎合することができなかっただけ、というケースも多いように思います。
その諸悪の根源にあるのが、「6・3・3・4制」です。義務教育を終えたら高校に進学し、いい大学に入り、いい会社に就職する。そのルートを作っているのが、この「6・3・3・4制」なのです。
子どもの可能性というものを、親は学校や教師に任せきりにしていないでしょうか。ルートに乗せるのではなく、いろんな可能性を見い出し、実際に体験させ、
「自分は何が好きなのか」を考えさせなければなりません。
しかし、学校といった教育機関がいらないといっているわけでもありません。実際に学校制度の改革は少しずつ進められており、その体質も少しずつ変わってきてはいますが、さらなる段階として必要になるのが、能力のある子どもには飛び級をさせるということです。
日本で飛び級を認めてしまうと、学校の存在意義がなくなってしまう
海外では普通にあることですが、現在の日本にはその制度がないのです。その理由は簡単です。飛び級を認めてしまうと、学校の存在意義がなくなってしまうからです。学校にとっては、飛び級をするような人間が世の中で成功されては困るのです。
スポーツの世界を見てもわかるように、卓球にしろ、テニスにしろ、ゴルフにしろ、トッププレイヤーたちは15歳の時点ですでに日本を離れ、海外でトレーニングしています。
「6・3・3・4制」などに従って日本に残っていてはすぐに使い物にならなくなってしまう。だからみんなすぐに海外へ出ていくわけですが、それには当然お金がかかります。すると、お金持ちの家庭しかスポーツの世界では上を目指せないといった状況になってしまうのです。