私たちもまた幸福を作ろう。時代を作ろう。羽生結弦と、共に…被災地能登訪問「あの日、10代の言葉」 と「いま」

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もうすでに、忘れられようとしている
「幸せは探せばたくさんある。『今日、これは幸せだったな』と思える習慣があれば、幸せな気持ちになれる」(※1)
北陸、能登の地。
羽生結弦は輪島中学校、約230人の生徒の前でこう、話した。
震災関連死も含めて300人以上が亡くなった能登半島地震、今年2024年1月1日に起こった震災だというのに、もうすでに忘れられようとしている。実際、すでに支援も限定的と報じられている。
思えば、羽生結弦も被災者だった。ソチ五輪当時の報道から引く(※2)。
「仙台市内のアイスリンク仙台で練習中、世界の終わりのような激しい揺れに襲われた。氷はひび割れ、壁が崩れ落ちる。何が起きているか理解できず、スケート靴を履いたまま、四つんばいで外に逃げた。市内の自宅は全壊。避難所生活の4日間は、2畳ほどのスペースに、毛布1枚で家族4人で雑魚寝した」