「本屋さんの救世主、羽生結弦」…はっきり言う。一部の心ない人々の攻撃はおかしい、本屋さんは何も間違っていない。

目次
今回は直接的に書かせていただく
本屋さんは何も悪くない。
今回は直接的に書かせていただく。
羽生結弦という歴史上の存在に焦がれる者のひとりだから書くわけでもない。
どちら側に立つかといったポジショントークで書くわけでもない。
これは「比較」として非常に大切な問題だ。健全な「比較」を冒涜している。それは無知蒙昧な行為である。
最初にはっきり言う。本屋さんは何も悪くない。
削除する必要もないが、不特定多数の顧客を相手にするからにはポストの削除は仕方ないだろう。またご迷惑になるといけないのでそのポストについて引用はしない。また親しみを込めて本稿、「本屋さん」とする。
しかし、その削除した内容はなにも間違っていない。
おかしなことには声を上げるべきだ。なにも間違っていないのだから。
その心ない人々は間違っている
本屋さんは何も悪くない。羽生結弦の本の売り上げを、喜んでくれたまでだ。
なぜこれを攻撃する心ない人々がいるのか、理解できない。
その攻撃、はっきり「ノイズ」と言わせていただく。なぜならその心ない人々は間違っているからだ。その本屋さんの担当は比べてなどいない。表現としてごく当たり前の「比較」をしたまでだ。
あの日、羽生結弦の店頭売り上げを称賛した大手書店のポストを攻撃する心ない人々がいた。なぜそんなことをするのか、まったく理解できない。
本来の「比較」とは何か。私は以前こう書いた。まず大事なことなので少し長いが引く。
〈単に「比べる」ことと「比較」は異なる。「比較」は重要である。それは漢字にあらわす通りである。選り抜くなら「比」とは人と人を並べることになる。文字通り単に人と人、転じて物と物を「比べる」ことなので、それは善意にも、悪意にも使われる。次に「較」だが、これも「較べる」である。同じく比較なのだが、語源を見てほしい。車に交わる、と書くのだが、これは馬車の両サイドにあるつかまる場所「較」となる。要するにつかまる左右、ひいては二頭の馬を指すことになるが、それぞれに「較べる」ことは馬車を前に進めることになる。左右に問題があれば前に進むのに芳しくない。だから左右を較べ、物事を前に進める、ということになる。これがあって初めて、本来の意味である「比較」という意味を為す〉
本屋さんは上下や優劣、貴賤を命題にしていない。シンプルに文芸賞のベストセラーと「比較」して、羽生結弦が店頭で売れていると喜び、報告しただけだ。
ここでの命題は「羽生結弦の写真集は売れている」である。これが「文芸賞のベストセラーは羽生結弦の本より売れていない」なら違ってくるが、本屋さんはそんなことはポストしていないし、するはずもない。前後を入れ替えただけで意味は変わる。むしろそうした妄想は攻撃した側の書き込みであった。わざわざ曲解して攻撃した。