敏腕編集者だったマツコ・デラックスが「僕らのハッピー・ゲイライフ」で訴えたかったもの…「薔薇族」と「Badi」がゲイ雑誌業界に革命を起こした顛末

ほとんど知られていないことだが、マッチングアプリ「Tinder」のリリースよりも早く、ゲイ専門のマッチングアプリ「Grindr」はゲイたちの間に浸透していた。今やマッチングアプリで結婚相手を見つける時代だが、その時代の先駆けはゲイの世界だったのだ。
そして、その礎を築いたのが「ゲイ雑誌」である。2020年に廃刊となったゲイ雑誌『サムソン』の元編集者でありゲイライターであるサムソン高橋氏が語るゲイメディア論とは。みんかぶプレミアム特集「オールドメディア vs SNS」第3回。
目次
三島由紀夫も寄稿したゲイ雑誌『ADONIS』
今回の特集テーマは「メディア」とのこと。ゲイライターである私にはゲイメディアについて書いてほしいとの依頼である。
最近のゲイメディアについて語ろうとすると、出会い系アプリでモテない自分の怨念を延々と書き連ねてしまいそうなので、かつて私も属していたゲイ雑誌について主に書き連ねてみようと思う。遠く懐かしいまなざしで。
ゲイは人類とほぼ同じ歴史を持っていると思うのだが、日本国内のメディアに限って言えば、その歴史はつい最近、具体的には第二次世界大戦後にようやくその萌芽が見られることになる。
戦後の混乱期に生まれたいわゆるカストリ雑誌。性を中心にした大衆娯楽雑誌のエログロSM変態猟奇をテーマにしたその中に、男色も含まれていたのだ。つまり、当時同性愛というものは権利も自由も関係ない、ただのアブノーマルな性癖としてとらえられていたというわけだ。
それとほぼ時を同じくして、「アドニス会」という会員制の同性愛サークルが誕生している。そのアドニス会が1952年に創刊したのが雑誌『ADONIS』。先のカストリ雑誌では男色は性風俗の一つとして取り上げられていただけだが、ここでは純粋に同性愛を中心に編纂されていた。今で言う同人誌のようなものだったが、これが日本最初のゲイ雑誌と考えられている。ちなみに『ADONIS』に寄稿した作家には中井英夫や三島由紀夫が変名でいたとされ、戦後の同性愛が極めてクローゼットかつハイブロウな選ばれしカルチャーだったことがうかがい知れる。
おそらく、当時は「ただの陰茎好きの男でーす」というだけでは同性愛者は存在できなかったのだ。なぜ男なのに陰茎が好きなのか、その理由を難しい顔で深淵の中に求めなければいけなかったのだ。めんどくさい時代である。というのも自分の他に同種の人間を探すのが難しかったから、自分の悩みを自分で処理しなければいけない時代だったから、であろう。やはり、めんどくさい。
『ADONIS』の他にも各地で同好の士による同人誌のようなものがあったという。70年代以降に商業化されたゲイ雑誌が流通する地盤がこのときにつくられたといえる。
『薔薇族』によるゲイ雑誌第一次革命
1971年に日本初めての商業ゲイ雑誌が誕生した。『薔薇族』というその名前は、今も多くの人が知るだろう。『薔薇族』が画期的だったのは、初めて商業ゲイ雑誌にして、その後のゲイ雑誌におけるひな型がすでに完成していたことだ。
グラビア、小説、漫画などのポルノ記事。同性愛に関する真面目な特集や読者投稿。ゲイバーやハッテン場やゲイポルノショップなどの広告。そして『薔薇族』最大の目玉が文通欄の存在だった(これはその後創刊されたゲイ雑誌すべてにも備えられた)。読者が自己紹介文を載せると、その人物に興味を持つ読者が手紙を出すことができて、編集部がその手紙を回送する。お互いの素性を隠しつつ交流をはかることができたのだ。
ゲイバーやハッテン場などには行く勇気がないし、そもそもそれらは都会にしか存在しない。そんな全国の孤独で悩める同性愛者を救う出会いの場になったのである。今も長年交際している同性愛者カップルに出会いのきっかけを尋ねると、70年代から90年代の各ゲイ雑誌の文通欄と答える人が意外に多かったりする。
『薔薇族』の成功に刺激されて、70年代は他にも『アドン』『さぶ』などといったゲイ雑誌が創刊された。薔薇族は総合的な感じだったが『アドン』は値段が少し安かったため若者の読者が多く、『さぶ』は短髪・筋肉・体毛・褌といういわゆる「野郎系」のテンプレをつくり上げた。同じカテゴリーの雑誌が増えるとその中でちゃんと細分化が進むのである。
ちなみに私が編集していたゲイ雑誌『サムソン』は、1981年にアドンから独立する形で創刊された。当初は一般的なゲイ受けを狙い、グラビアでは普通にマッチョや若者を採用していた。だが、フケ専とデブ専の編集者がいたために個人の趣味としてたまに中年や太目グラビアを載せていた。その反応がよく、『サムソン』は80年代後半に業界唯一のフケ専デブ専雑誌として徐々に舵を切る。