『ダニーボーイ』…命に想いを寄せ、祈り、舞う、ヒロシマに咲く白き花『Echoes of Life』広島公演

目次
命とは、わたしとは、の物語にふさわしいプログラム
ダニーボーイ、其は美しい。
ヒロシマに咲く白き祈り、永遠なる美しき時代の子。
広島公演は極めて重要な公演になる――この私の想いの先にあったのが羽生結弦『ダニーボーイ』であった。
『Echoes of Life』ではアイスストーリーの中に組み込まれている。命とは、わたしとは、の物語にふさわしいプログラムだ。埼玉公演の初見、私は泣いた。
もちろん、それまでも『ダニーボーイ』は観てきた。そのたびに新たな感動がある、新たな涙がある。
羽生結弦のプログラムもまたそうした目覚めがある
ある意味、羽生結弦のプログラムには初見しかないとも言える。つまり常に新しい「何か」を見出すことができる。同じものを観たということがない。
私の好きなクロード・モネの『睡蓮』を繰り返し鑑賞しても新しい発見と新鮮な自身の心に目覚めるように、羽生結弦のプログラムもまたそうした目覚めがある。商業的な話になるがリピート客の絶えることのないのも当然である。同じものを演じても同じではない、優れた芸術とはそういうものだ。
広島公演のダニーボーイは指の先まで祈りにあった。祈りとは指先から始まる。舞踏芸術もまた指先から始まる。祈りの先に人がある。あまたの命がある。
私見だが、広島公演の『ダニーボーイ』の演技はより大きく、羽生結弦の姿そのものもひときわ大きく見えた。そして、あくまで『Echoes of Life』というアイスストーリーではあるが、『ダニーボーイ』は殊の外その先の象徴へと誘う表現を見出すことができた。
私は広島公演の初日は現地、二日目は放送で鑑賞したが、その指先はさまざまな神仏の形象にあった。仏教用語では「印相」など複数の呼び名があるのだが、羽生結弦で言えば『SEIMEI』の「手印」など馴染みがあるだろう。
印相は様々な仏の衆生に対する祈りが込められている。その祈りそのものが仏の内証――つまるところ悟りが秘められている。「内緒」という言葉はこの内証から来ているのだが、祈りもまた内証である。
大乗における祈りとはより多くの衆生に伝わらなければならない。伝わることで祈りは響鳴する。命は響鳴する。まさに「Echoes of Life」という言葉そのものだが、羽生結弦の『ダニーボーイ』、とくに広島公演のそれは祈りの響鳴、そして命の響鳴を象徴するプログラムであった。
泣くと同時に心は祈りに
広島公演の私は泣くと同時に心は祈りにあった。自然と祈っていた。氷上の羽生結弦は白き花だった。