みんな向かう。それでも、向かう…祈りと希望の発信地へ。3.11、みんながみんなを忘れないために『羽生結弦notte stellata2025』紀行(1)

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約束の地へ、セキスイスーパーアリーナへ
3月7日、東北新幹線。
席はほぼない。いや、まったくないと言っていい。
それでも、向かう。
前日の連結部分が走行中に外れた影響で「こまち」「つばさ」が東京までの一部区間を運休してしまった。そのため「はやぶさ」「やまびこ」の17両編成が10両編成となってしまい席が足りない。
私の乗る「やまびこ」は自由席から溢れた一部乗客がデッキで立ちっぱなしの事態となった。
それでも――。
プーさんをぶら下げた人、グッチに身を固めた人、そして『GIFT』『RE_PRAY』『Echoes of Life』のグッズを身に着ける人――みんな向かう。それでも、向かう。
約束の地へ、セキスイスーパーアリーナへ、『notte stellata』(以下、notte)へ――。
愛し、愛され、それぞれに人生があった
見ればnotteのグッズを身に着けた人もいる。
そうか、もう3年目だ。早いものだ。東日本大震災からだって、もう14年だ。
私の妹が3.11の年に身ごもっていた娘も中学生。本当に早い。
あの日、彼女は車中泊でお腹の中の娘と共にいた。仙台の富沢というところだったので沿岸部ほどの被害はなかったが、それでも不安だったろう。
それが生まれてもう中学生、早いものだ。被災地の多くに同じような「早いものだ」の子どもたちが育っていることだろう。
その同じ日、3.11。
同じように不安のままに夜空を見上げていた青年がいた。
NHK杯4位、全日本フィギュア4位、四大陸選手権2位の高校生、羽生結弦だった。
シニアに転向したばかりの青年は世界中の大人たちと闘い始めていた。いや、すでに自分との闘いだったか――。
そうだ、羽生結弦にもそんな時代があった。当たり前の話だがいまとなっては、である。早いものだ。
いまと比べれば何者でもないフィギュアスケート選手。その後が凄すぎるからこう言わざるをえないのだが、それは事実だと思う。シニア転向からすぐ上位につけ、四大陸では表彰台に上がった。青年は氷に愛された。彼も愛した。
それでも。
あの日、羽生結弦は、夜空を見上げるしかなかった。
東日本大震災――1万8千人以上の死者、行方不明者を出した。18000人、一万八千人、いちまんはっせんにん。
数字で書くというのは嫌なものだ。
漢数字であっても平仮名であっても、なんと簡単過ぎることか。
すべて命であるはずなのに。
愛し、愛され、それぞれに人生があった、その瞬間まで、現在進行系の「いま」という生活があった。生きることを望んでいた、いや、生きることが当たり前だった。
私たちもそうだ。生きることが当たり前な世は幸福だ、それでいい。生きることが当たり前でない世ほどに悲しいものはない。
その「悲しい」が一瞬にして押し寄せた。
五輪がまだ憧れだった青年を襲った悲劇
被災者、羽生結弦もまたそうだった。本人の口からさまざまに述懐している周知の話なので措くが、自分がどうなるかもわからない高校生、五輪がまだ憧れだった青年を襲った悲劇――被災したすべての人々が、それぞれに震災の主人公だった。なんと悲しいことか。