私は愚かだった。真の伝統とは、恐ろしいもの。野村萬斎と羽生結弦の狂演…「神話的時間」に幽閉された『羽生結弦notte stellata2025』紀行(3)

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私は愚かだった。真の伝統とは恐ろしいもの
ああ、困った。怖い。野村萬斎、私は愚かだった。真の伝統とは恐ろしいもの、そして羽生結弦は羽生結弦を必ず超えるとわかっていたはずなのに。
萬斎が漆黒の闇に飛んだ、本当に飛んだ。怖い。怖いのに涙が出る。これが伝統だ、羽生結弦の世界だ。優しくてあたたかくて、それでいて怖い、神の領域――。
そうだ、神事だ。
能と狂言を総称して「能楽」と呼ばれるこの伝統は、そもそもが神事であった。
さらに元をたどれば奈良時代に中国から伝わった雑技(百戯)の「散楽」がルーツとされる。能よりむしろ狂言のほうが大元に近い滑稽芸である。
狂言にどこかアクロバチックな要素が取り入れられているのも中国の雑技や能楽成立以前から存在した散楽の名残だが、これらは「芸能」とも呼ばれ現在の芸能界とか芸能活動などの「芸能」という言葉にも引き継がれている。
ちなみに「俳優」という言葉もそうだ。俳優と書いて「わざおぎ」と読むが、神を讃え、豊穣を呼ぶ踊り手が起源である。
神との接触
下掛宝生流の能楽師、安田登(ワキ方)の『異界を旅する能 ワキという存在』によれば、
〈日本の芸能の起源を『古事記』に探るとアマノウズメの舞に行きつく。『古事記』では、彼女は「神懸り」をしたと書く〉
〈『古事記』の芸能は、アマノウズメの次は山幸彦だ。『古事記』では「種々の態」とだけ書くが『日本書紀』には「俳優」(わざおぎ)になったという〉
〈日本においては芸能はエンターテインメントではなく神事なのだ。日本には「芸能=神事」という長い歴史によって織り込まれた厚い基層があり、その基層の上に、中国からやってきた「散楽=サンガク」が乗ってきた〉
とある(※1)。世界中の舞踏が文明以来、いや文明以前の太古の時代より神との接触であったことは日本も同様である。だから羽生結弦のフィギュアスケートが「神々しい」のは当然のことであり、何をどこで演ずるにせよ踊るという行為は神との接触である。
また安田は能を「異界」としている。これは狂言も含めた能楽、いや舞踏芸術、延いては芸能すべてに言えることだ。
〈なぜ人にとって異界と出会うことが必要なのか。それは異界と出会うことによって「神話的時間」を体感し、そして人生をもう一度「リセット」できる可能性を感じるからではないだろうか〉※2
ここまで書いてきておわかりだろうか
深い話だと思う。興味のある方はこれを機会にぜひ読んでいただきたいが、私たちが羽生結弦を通して「神話的時間」を体感していることもまた異界との出会いという精神的な「リセット」を望むからということか。