なぜ人はブランドバッグをありがたがるのか…成田悠輔「人は現実よりも幻想を評価する」

シャネルやエルメスといった、ハイブランドの商品の高騰が著しい。これに対し、経済学者の成田悠輔氏は「事に基づく資本主義は無限大の新大陸を発見した」と話す。なぜ人は“安くて便利”なものより、“優越感を与えてくれる”ものを選んでしまうのか。成田氏がその背景を探る。全3回中の2回目。
※本稿は成田悠輔著「22世紀の資本主義 やがてお金は絶滅する」(文藝春秋)から抜粋、再構成したものです。
第1回:成田悠輔「わからなさこそが資本主義」なぜ金より株が上昇したのか
第3回:成田悠輔「個人によって物の値段が異なる社会がやってくる」そして誰もが比較されない社会へ
目次
未来はインフレ、現在はデフレ
金のようにいま目の前で見て触れる便益をくれるものより、株のように目に見えぬ未来に価値を爆発させるものかもしれないものの市場価値が膨張している。この仮説を支える事実・データを見てみよう。
寓話:売り上げゼロの1兆円企業
十分に発達した経済は魔法と区別がつかない。「汎用魔法」という名の会社がかつてあった。今でいうスマートフォンを世界ではじめて構想し製品化、そして華麗に失敗したGeneral Magic社である。
失敗製品さえできるずっと前、まだ構想と素描しかなかったGeneral Magicは1995年2月にNASDAQに株式上場した。利益はおろか売上はおろか製品さえなかったにもかかわらず、時価総額は数百億円(当時)になった。現在でいえば数千億円から1兆円に相当する時価総額だ。世界ではじめての「コンセプトだけの上場(Concept IPO)」と言われる。
あれから30年。こんな魔法のような物語を想像してほしい。「売り上げゼロの赤字企業ですが、今後に向けてがんばってます。そこで今度株式市場に上場しました。すると時価総額が1兆円になりました」。いまの日本の経済感覚では、ちょっとマンガやドラマでもありえなさそうな設定に聞こえる。
けれど、そんな奇怪な会社がゴロゴロ生まれてるのが世界、特にアメリカの株式市場だ。2000年前後のインターネット・通信、そして最近の製薬・バイオテックや電気自動車、それに付随する次世代蓄電池—―こうした領域では売上がほぼゼロで赤字上場して数千億円以上の時価総額がついた企業がゴロゴロある。これらの中には賛否両論の多い(というか詐欺まがいも多い)特別買収目的会社(Special Purpose Acquisition Company:SPAC)も多いが、それだけではない。
未来がインフレし、現在はデフレしている。少数の異常値だけではない。世界や一国の株式市場全体を眺めてもそうだ。世界の全上場企業の総時価総額と世界の総GDPを比べてみる。すると、総GDPと比べた総時価総額がどんどんと増えている。
世界全体でもアメリカでも日本でもそうだ。もちろん時価総額とGDPを比べるのは雑だし変だ。ただ、時価総額が企業の将来の収益の割引現在価値を表す一方、GDPは現在の経済活動が生み出す付加価値を表す。だから比の値自体にわかりやすい意味はないが、未来のまだ存在しない経済活動の価格が現在すでに存在している経済活動と比べて上がっている、とは言えそうだ。
株価や時価総額だけを眺めても、似たことが起きている。時価総額/現在の利益(株価収益率、Price Earning Ratio:PER)や時価総額/現在の売上(株価売上率、Price To Sales Ratio:PSR)がじりじり上がっている。世界でもアメリカでもだ(が、日本は例外でバブル崩壊以後横ばいである)。今ここでの売上や利益と比べた未来への期待の価値が上がっている。
その結果、企業の株価・時価総額を今ここの収益や目の前にある資産の保有額で説明することがどんどん難しくなっている。これは企業活動の過去・現在を正確に記述しようとする会計(学)の「終わり」だという主張さえある。未来に向けた夢物語で膨れ上がった巨大な風船企業群が象徴するのもまた、現在での実体より未来への期待を商品化できてしまう資本市場の機能の極端な表れである。
「物」より「事」が選ばれる
寓話:ブランドが世界を食べる
ココ・シャネルはかつてこう言った。「ラグジュアリーとは必需品が終わったところで始まる必需品である」。ラグジュアリーなポジショントークである。
パリのファッションウィーク(パリコレ)に野次馬見物にいくことがある。言われなくても場違いなのはわかっている。世界中から招かれた100ぐらいのブランドがパリ市内を縫ってショーを繰り広げる1週間には、日本からもイッセイミヤケ、コムデギャルソン、ヨウジヤマモトをはじめ10ほどのブランドが参戦している。私と同世代の30ー40代のデザイナーのブランドもいくつかある。
封建社会や年功序列の象徴にも見える。若いブランドから先陣を切り、古参の大御所ブランドが奥に構えるその布陣がだ。実際、シャネルなどハイファッションの頂点に立つブランドの顔ぶれは、半世紀前も今もほぼ変わっていない。毎シーズン絶えず流れ行くことを運命づけられたはずのファッション(=流行)産業で、市場参入規制もないのに頂点が長く独占されつづけているのは自己矛盾に見える。なぜなのか?答えがわかった方はこっそり教えてほしい。
ハイブランドが資本主義を煮詰めている。21世紀に入ってから彼らの商品のインフレがすさまじい。ここ5年(2019ー24年)でエルメス、グッチ、シャネル、プラダ、ルイ・ヴィトンの核商品が34~111%も値上がっているという。ブランド名とロゴによる合法ぼったくりの時代にも見えるし、ハイファッションが消費する商品から投資する資産へと変貌しているとも言えそうだ。ブランドの商品化から資本化への移行である。
個々の商品だけではない。企業としての市場価値も膨張中だ。ルイ・ヴィトンを中心するとする服飾、宝石、時計、ワインなどのハイブランド複合体LVMH(LVMH Moët Hennessy Louis Vuitton)の時価総額がトヨタやソニーをはるかに超えているのは暗示的だ(2024年12月に3150億ドルで50兆円超)。そして、複合化し大型化するLVMHと真逆の流儀を貫き、家族経営と職人仕事の徹底を突き進めるエルメスの時価総額もまた爆発している(2024年12月に2430億ドルで35兆円超)。
安く便利で良い物を今ここで与えてくれるだけの企業より、雰囲気や価値観、優越感の高揚感など、いわく言語化・数値化しがたい事を与えてくれる商品と企業の市場価格が高まっているのかもしれない。物は枯渇するが事は枯渇しない。事に基づく資本主義は無限大の新大陸を発見したに等しい。