好きに国境はない。海を隔てていても心の隔たりはない…「あなたはなぜ、羽生結弦を好きになったのですか?」 『羽生結弦をめぐるプロポ』「好き」(1)

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好きに国境はない
羽生結弦「notte stellata 2025」公式は先日、こう英語で呼びかけた。
〈To all our friends overseas, let’s enjoy the making of “SEIMEI” together〉
そうだ、好きに国境はない。海を隔てていても心の隔たりはない。
そうだ、好きを語ろう。
ひとりでもみんなでも、そうだ、まず好きを語ろう。
あれが嫌いとか、これが気に入らないとか、彼らが間違っているとか私が正しいとか、それらは好きを語ったあとでいい。でも本気で好きを語ると、それらはどうでもいいことになる。
ときに、それらが私ごとに思えてしまうことはあるだろう。でもそれらは私ごとではないのだ。
私ごとにするべきときは命が脅かされるときである。政治、経済、社会といった倫理の危機には声を上げるべきだ。それは命の問題だから。もちろん自分の好きが脅かされるときもまた、そうだろう。
しかしあきらかにそうではない、おおよそ自分ごとでないことのほうが世の中は大半である。
まず、ここが大事である。
たいていのつまらない諍いというのは自分ごとでないことで他者を攻撃するところから始まる。つまらないと書いたが何が重要で、何がつまらないかは上下や貴賤の話でなくつまらないものはつまらないのだ。ましてや好きを前にすれば大半のそれらはつまらないものだ。
なんであんなことで怒ったのだろう、は誰にもある経験だが、その怒ったことすら忘れていたりもする。やられた側からすれば理不尽な話だが人が人である限り詮無い話、そういうときもまた好きを語ることから始めることができるのもまた人である。
そうだ、だから好きを語ろう。
「なぜ羽生結弦を好きになったのですか」
まず私の好きを改めて語ろうと思うのだが、思えば私はなぜ舞踏芸術が好きか、フィギュアスケートが好きか、そしていま羽生結弦が好きかという話をあまりしてこなかった。
これまで多くの「なぜ好きになったのですか」といった言葉をDMやメールでいただいていたが、私のことなどいちいち話すより羽生結弦の話をしたほうがいい、ただそれだけであった。
私は評伝作家としての著作もある。主に短詩型文学における評伝だが『評伝 赤城さかえ』『LEGEND 古沢太穂』『職業俳人、秋元不死男 ~生きるために、食うために~』『あゝわが良妻ヤエの脳血管破れたり 芝子丁種の介護地獄とリアリズムの到達点―』『『砲車』は戦争を賛美したか ―長谷川素逝と戦争俳句―』『はぢける如く 高濱虚子と河東碧梧桐』など書いてきた。常に教科書に出てくるような松尾芭蕉だ小林一茶だ、正岡子規だに比べれば知られていないと言って差し支えないだろう。