好きに国境はない。海を隔てていても心の隔たりはない…「あなたはなぜ、羽生結弦を好きになったのですか?」 『羽生結弦をめぐるプロポ』「好き」(4)

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この国にも白鳥があらわれた。そう思った
やはり、白鳥だった。
全日本2010年SP「ホワイトレジェンド」。
ああ、この国にも白鳥があらわれた。そう思った。
いや、思わされた。
◯◯落ちという言葉があるが、私にとっての落ちをあえて書くならこの白鳥だったのだろう。
白鳥は東日本大震災を経た2011年のアイスショウにもあらわれた。
私にとっての「時代の子」の誕生だった。
もちろんそれまでの羽生結弦もフィギュアスケートという全体からすれば知っていた。ジュニアに凄い子がいる。報道を通しての話だ。しかし実感とするなら羽生結弦という白鳥との出会いだった。
積み重ねの先にあったのが羽生結弦だった。
亡くなった母もまたフィギュアスケートを観ていたが、実家に帰ると羽生結弦を見てこう言った。
「指先よ、見事な指先、こういう表現ができる子はなんでも上手になるの」
日本舞踊の分家家元であり、大衆劇で浅香光代と共に舞台にあった彼女の指摘は確かだった。結果としても確かだった。
舞台芸術における目力
母は別にフィギュアスケートファンというわけではなく舞踏ならなんでも観る人だったが、伝統芸能の視点からもそれは確かだった。野村萬斎もそうだが、有名無名は関係なく、その道の人というのはおおよそ確かなものなのだろう。
私も幼少期からこの指先の話と足さばきの話は散々聞かされた。あとは目だ。日本の伝統芸能には目千両という言葉があるが、母が言うには優れた演者は客から遠くて見えなくとも目の力は客を捉えるそうだ。
フィギュアスケートでもよく使われる『韃靼人の踊り』というアレクサンドル・ボロディンの曲があるが、欧州では韃靼人=タタール人は目が大きく印象的だとされた。ロシアの誇る20世紀最高のバレエダンサーのひとり、ルドルフ・ヌレエフやおなじみアリーナ・ザギトワもタタール系である。ニジンスキーもまた遠くタタール系という説がある。実際は目が大きいとかどうこうと目力は関係ないのだが、なるほど羽生結弦の瞳も目千両である。
なんだろう、彼の視線は遠く豆粒のような席からでもわかるのだ。いやわからされてしまう。これはもう舞台芸術における典型的な目力ということになる。
共感こそが好きの源であり、好きを人に伝える術
白鳥が火の鳥となったいま、もはや私は火の鳥に焦がれている。恐れ、焦がれる。好きの先には畏怖があり、畏怖の先には好きがある。この繰り返しが畏敬となる。好きとは敬うことだから。