「あなたは羽生結弦のどんなファッションが好きですか?」衣裳、グッチ、あるいはジャージのこと『羽生結弦をめぐるプロポ』「纏う」(3)

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舞台衣装は、どんなことがあってもアリバイであってはならない
羽生結弦のグッチ、シルクスカーフによる演舞はみなさんもう見たかと思いますが、なんというかもう天女、男性ですから天男になるのでしょうが神道的に男の天降りは神になってしまうので「天人」なのでしょうが、宗学的な話はともかく「天の舞い」であったことを言いたい、もとい「言いたい!」ということです。天界の人は万国共通で多くは「裸足」ですからね、それもまた至当です。
モダンダンスの祖、イサドラ・ダンカンが「裸足のイサドラ」として窮屈なシューズを脱ぎ捨てた「革新」は、それまで生死に関わるような行き過ぎたコルセットや纏足といった陋習から女性を開放する象徴になりました。
ファッションで言えばポール・ポワレが女性をコルセットから開放し、それをココ・シャネルが女性も着ることのできるスーツに昇華した。不自由を引きずるようなスカートから女性の膝を開放したマリー・クワントのミニドレス、それをアンドレ・クレージュがミニスカートとして世に放った。現代の私たちが当たり前に纏うファッションもまた、そうしたデザイナーの思想が流れています。
だから羽生結弦の「学んでいきたい」は本当に人としての教養があらわれているんですね。妥協なき氷上の衣装もそうでしょう。デザイナーの矜持もしかり。
哲学者ロラン・バルトはファッションにも精通していましたが、舞台衣装についてこう述べています。※
「舞台衣装は、どんなことがあってもアリバイであってはならない。すなわち、別の場所をしつらえて何かを正当化する手段になったりしてはならない。衣装が素晴らしく濃密な場となって注意がそちらにそれ、劇の責務ともいうべき本質的現実からそれてしまうようなことがあってはならないのである」
「また、衣装が一種の代償になってしまってもいけない。作品の言葉不足や力不足を、衣装の成功が埋め合わせたりしてはならないのだ。衣装はつねに純粋な機能的価値を保つべきであって、劇を窒息させても、膨張させてもよくない」
「衣装は、演劇行為の意味作用にとってかわるような独立的価値をもたないように心がけなければならない。だから、衣装が断罪されるべきものになるのは、それが自己目的になるときである」
なるほどフィギュアスケートにも当てはまる内容です。競技会なら「純粋な機能的価値」は最重要でしょうし、アイスショウはそれと同時に衣装ばかり目立つことが良しとはされないでしょう。
感性の発露
ここで私が思い出したのは『Echoes of Life』のNovaです。