席が埋まらない、チケットが売れない時代…お金を出すことの価値、その期待に真摯な人。だから、行くんだ。『羽生結弦をめぐるプロポ』「価値」

目次
生活の糧を求め、自分の才能を売る
お客が来るか、どうか。
チケットが売れるか、どうか。
ちゃんと黒字になるか、どうか。
これらすべて演者やその関係者の生活、ひいては人生に直結する行為が「興行」である。
許可をとっての路上パフォーマンスや路上ライブもまた興行。もちろん無料の場所で身ひとつの興行と大掛かりな組織としての興行は経費も違う。またそれによる黒字のアベレージも変わる。
それこそもっとシンプルに古く旅芝居の一座や大道芸、踊り子、シャーマン、吟遊詩人でもいいだろう。
生活の糧を求め、自分の才能を売る。
立派な仕事だ。
かつて、その日暮らしの彼らはヨーロッパでボヘミアンあるいはジプシー(歴史的な意味で便宜上使う)と呼ばれた。もちろん日本にもいて、それらはやがて河原住まいの芸から身を立て町中で箱を持ち、歌舞伎や新劇となった。
川端康成『伊豆の踊子』はそうした時代の流れ、大正時代の空気(旧制一高生の「私」という悩めるインテリと無垢な踊子の少女、薫の想いとすれ違い)を登場人物の関係を通し描いた初期の傑作だが、彼女のような名もなき踊子もまた、この国の芸術の歩みを支えたのだと思う。それこそ彼女たちも次の仕事はあるか、お金をいただけるかの不安があったろう。ほのかな恋と座敷なら座敷、薫の母のプロとしての教え(生活、身分はもちろんその裏にある残酷な現実も含めて)もまた切ない。
思えば私も母のある健康ランドで演じた舞台について行って不安になったものだ。舞台袖にいて客は来るだろうかと何度も覗き見た。正直なところ母はテレビや大劇場で踊るのとは違う無名の人である。息子である私にはよくわかっていた。浅香光代の舞台に出ているほうがホッとするのは浅香先生が著名な役者でプロモーターもしっかりしているから箱の選びも確かで十分に埋まった席で観ることができるからであった。