医学部を諦めきれなかった3浪生の末路──E判定連発…“人生やり直し”を成功させるまでの軌跡
教育ジャーナリストの濱井正吾さんが、「学歴ロンダリング」をして、人生が好転した人を取材する連載「濱井正吾 人生逆転の学歴ロンダリング」。
今回は、芝中学校・高等学校から早稲田大学理工学部物質開発工学科に進んだものの、再受験をして金沢大学医学部に入学。現在は医師として活躍する林恭秉(きょうへい)さんにお話を伺いました。全2回の第1回。
目次
父は歯科医師。成績優秀・スポーツ万能だった小学生時代
林さんは埼玉県岩槻市(現:さいたま市岩槻区)に、歯科医師の父と、主婦の母のもとに生まれ育ちました。
岩槻市にある普通の公立小学校に通っていた林さん。小学校の前半は思ったような学校生活が送れなかったものの、後半からはもともと成績も運動神経も良かったところに体格も追いつき始め、学校の中で目立つような子どもになることができたそうです。
「都心まで微妙に距離がある学校でした。一学年に20〜30人程度の学校だったので、人数もそんなに多くはありませんでした。低学年のときは体が小さくていじめられていたのですが、体の大きかった姉が自分をいじめた子たちをよく怒ってくれていたので、高学年になってから周囲を気にせずに活発に学校で過ごせるようになったのだと思います。学校では同級生のうち、中学受験をした人が10人にも満たない環境でしたが、母親が勉強熱心・教育熱心だったこともあり、成績的にトップの方だった僕は小学4年生の後半から四谷大塚に通い出し、中学受験を意識し始めました。リレーの選手にも選ばれていましたし、小学生の中では目立つ、活発な子どもでした」
周囲に中学受験をする人が少なく、情報面で不利な中でも中学受験の勉強を重ねた林さんは、見事に有名進学校である芝中学校・高等学校に入学します。
名門・芝に進学するも、自由な校風にどっぷり浸かる
「中学ではごく普通の生徒だったなと思います。芝の校風は一度入るとどっぷり浸かってしまい、勉強しなくなることから『芝温泉』と言われています。生徒に優しい、自由でのびのびとした環境でぬるっと育つのですが、僕も他の生徒と同じように校風に浸かり、よくいる私立学校の世間知らずの子どもといった感じで学校生活を送っていました。部活では陸上部に入っていたのですが、仮面部員という感じであまり参加はしておらず、熱心には活動していませんでした」
Mr.Childrenの『Everything (It’s you)』の歌詞「世間知らずだった少年時代から 自分だけを信じてきたけど」の意味が学生時代にはピンと来なかったものの、学校を卒業してさまざまな環境を経験し、いろんな人の支えを実感するようになった今、ようやく分かるようになったと林さんは語ります。
中学校・高校当時の将来の目標は漠然としていたものの、『医師になろう』と思っていた林さん。しかし、芝温泉にどっぷり浸かっていたため、実際に受験を意識し始め、医学部を志望校に設定したのは高校3年生になってからでした。後になってから、「すでにこの目標設定から誤っていた」と後悔することになります。
「当時、父親は私立大学に行かせるお金はないと言っていたので、自分にチャンスがあるのは国公立の前期・後期の2回のみだと思っていました。ですが、模試の結果もずっとE判定が続いていましたし、結局現役の年に受けたセンター試験は70%くらいしか取れていなかったので、勉強を開始するのが遅かったと思います」
現役年の受験では、秋田大学の医学部に前期試験で出願するも不合格。併願で受けた東京理科大学と芝浦工業大学に合格はしたものの、辞退して浪人を決断します。ここから早稲田大学に合格するまでは、3年を要することになりました。
「自分の実力だったらもっと上にいける」と思い込んでいた
駿台予備学校の大宮校に通い出した林さん。1浪目は駿台予備学校の大宮校に通い、センター試験のパーセンテージは70%から80%に伸びました。しかし、「医学部には全然到達できなかった」と語ります。
「この年はもう一度秋田大学医学部を受けて不合格でした。この年に受けた模試も通じてすべてE判定でした、この判定は厳しすぎるんじゃないか、自分の実力だったらもっと上にいけるんじゃないかという思い込みがずっとありました」
2浪目に入った林さんは、「自分はもっとできる」との思いのもと環境を変え、この年から医学部志望者が集まるようになった駿台予備学校の市谷校に通い始めます。そこで彼は初めて、「医学部受験する人間ってこんなにいるんだ」と、受験の厳しさを肌で感じました。
「駿台市谷校は医学部志望の学生のクラスが4〜5クラスあり、2クラス目以上じゃないと、基本的には医学部には受からないだろうと言われていました。自分はそれなりにレベルが高いのではないかと思っていたので、2クラス目からスタートするかと思っていたのですが、3クラス目からのスタートだったので驚きました」
2浪目にしてまさかの合格圏外だった林さん。この年は全く成績が上がらず、強い中だるみを感じたそうですが、その一方で、受験勉強に費やした今までの時間を無視できず、旧帝大の医学部に行きたいと思いはじめました。
3浪目…予備校でハブられる事態に
「旧帝大はセンター試験の点数を圧縮する傾向があったので、センター試験を軽視し、手の届かないレベルの問題集や、2次試験の対策をメインでやり始めてしまったのが勉強をする上でのミスだったなと感じています」
この年も模試の判定はEのみで、センター試験では前年より少しだけの80%台前半を記録。そして、前期で東北大学医学部、後期で福井大学医学部を受験したものの、どちらも不合格。併願校の早稲田大学の理工学部には合格していたものの、医学部に行く重要性を感じていたので、入学を辞退して3浪に臨む決意を固めます。
3浪目では予備校を変えようと思い、河合塾の池袋校に通いはじめた林さん。しかしそこでは一緒にご飯を食べるようになった浪人仲間に、次第に林さんを一人だけ省くような冷たいような態度を取り始められたそうです。それが精神的に苦痛だったこともあり、後期からは予備校に通わなくなってしまいました。
「今思えば、僕の言ったことが鼻についた可能性もあります。仲間の中にも東京理科大学で仮面浪人をしていた子がいたのですが、僕が『早稲田の理工を合格したけど辞退した』ということを言っていたので、それがよく思われなかったり、嘘だと思われたりしたんじゃないかなと思います。僕の傲慢な姿勢が招いてしまったことだったのかもしれません」
結果的にこの年も、模試は全部E判定でセンター試験も横ばいの80%台前半に終わります。そして、東北大の医学部を受けて落ち、前年度に続いて受験してもう1度合格した早稲田大学の理工学部に通うことに決めました。
「医学部に受からないと考えたことは一度もないのですが、毎年、壊滅的に国語ができなかったことが、成績やパーセンテージが横ばいになってしまった原因だと思います。医学部を目指すには、センター試験で85%を突破するということが1つの壁になっているのですが、毎年国語は200点満点で100~120点しか取ることができず、ここだけがグッと足を引っ張ってしまっていました」
両親、親族から「医学部は諦めなさい」の非情宣告
早稲田大学に進学することを決めたのは、自分の意思ではなく、親族の意向が大きかったそうです。
「実はこの前年に早稲田大学理工学部に合格したとき、親族からは早稲田に進学することを勧められていたんです。それでも、自分は『もう1年やれば、絶対行けるから』という謎の自信があって、進学を拒否したことがありました。それもあって、早稲田に2回目の合格をいただいたタイミングで、両親や親族から『もう医学部は諦めなさい』と言われたのをよく覚えています。それで、ようやく早稲田大学に進学しようと思いました」
こうして林さんは一度、医学部に入学することを諦め、早稲田大学理工学部物質開発工学科に進むことを決めます。
しかし、彼の医学部への思いはあることがきっかけで再燃し、また再受験をすることを決意するのでした。