嫌がる子に水泳教室を通わせる”恐ろしい影響”…親は居心地いいが「子が生きるための言語化」身につける機会奪う
モラハラ、メンヘラ、アダルトチルドレン…自ら孤独に進む人は「恐ろしい世界」を生きている
暴言や無視、正論などで相手を追い詰めてしまう人の共通点として、モラハラ・DV加害者の当事者団体GADHA代表で自らも加害の当事者であった中川瑛氏は「彼・彼女らは“恐ろしい世界”に住んでいる」と指摘する。加害当事者の世界の見え方と、そのような人たちが口にしがちな言葉とは――。全4回中の2回目。
※本稿は中川瑛著『孤独になることば、人と生きることば』(扶桑社)から抜粋・編集したものです。
相手を追い詰める人が住む“恐ろしい世界”
僕は、GADHAでの活動を通して多くの被害者の方、そして加害者の方のお話を伺っている中で確信していることがあります。それは、こういった加害的なコミュニケーションは、大きなものから小さなものまで無数に存在し、社会全体を覆っており、家族・学校・職場・地域社会・政治などの領域において、一度も経験したことがない人はおそらく存在しないだろうことです。
これらの事例に対して「メンヘラ、境界性人格障害」と言ってみたり「AC(アダルトチャイルド)」と言ってみたり、「発達障害、ASD(自閉スペクトラム障害)っぽいかもね」と言ってみたり、モラハラとかパワハラとかDVとか虐待とかマルトリートメントとか、多様なラベルをつけることができると思います。僕は、これらをまとめて「孤独になる言語化」と表現しています。
ただし、単にそれをジャッジして悪いことだと批判して、それをする人は間違っていると糾弾するのではありません。
孤独になる言語化と、人と生きるための言語化がある。後者を選ぶことが関係を始める前提であり、その責任を果たさないのであれば関係が終わってしまうことは自然であり、別れには合意がいりません。それを知らないで、幸せになりたいはずなのに、孤独になる言語化を繰り返してしまう人はたくさんいます。一体どうしてそうなってしまうのでしょうか。
実は、孤独になる言語化には明らかに共通点があると僕は考えています。起きる現象、出来事はさまざまです。ある時には暴言を吐く形を取ることもあれば、ある時には無視、ある時には理詰めで淡々と相手を責める、いきなり爆発する、正しさを主張する、愚痴を聞かない、いろんな形がありますが、その本質はかなり似通っているように思うのです。
孤独になる言語化をする人は「恐ろしい世界」を生きていて、人と生きるための言語化をする人は「信じられる世界」を生きている、と考えることができます。
「子どもは親の言うことを聞くべき」に潜む支配関係
具体例を出して、このことについて考えてみます。人は時に、「正しいXX像」を見つけてきて、それを自分に当てはめようとすることがあります。「正しい母親ならこうすべき」「それができない自分はダメ……」と、恐ろしい世界には「絶対的な正解」と「間違い」が存在していて、正解の側にいなければ人に責められたり、馬鹿にされたり、攻撃されたりします。
それは怖いことなので、なんとか正しい側になりたいと人は努力することになります。自分に「正しいXX」とか「優れたYY」といったものを持ち込む人は、他人にもそれを持ち込みます。そうすると自分のことも苦しめるし、他人のことも苦しめる、ということがよく起こることになるでしょう。
何か正しいと想像するものがあって、人をそれとの距離の比較で見てしまうのです。減点主義と言い換えることもできるでしょう。しかも人間同士の関係も上下関係で捉えるので、そうすると「偉いほう、優れているほう、正しいほうが、当然に『私たちの言葉』を決めることができる」と考えるようになります。
例えば「私は母親であなたは子どもなんだから、私の言うことを聞くべき。あなたは何もわかっていない、私はあなたのことをわかっている、これがあなたにとっていいことなの」と言って、習い事を勝手に決めたり、服を勝手に決めたりする場合がそうでしょう。
子どもがその習い事を辞めたいと言っても、「途中で辞めるなんて中途半端はいけない」「やり遂げる力がなくなる」と言って、そもそも「なぜ辞めたいのか」「どんな嫌なことがあるのか」「他にしたいことがあるのか」といったことをまともに聞きもしません。
なぜなら、聞くまでもないからです。意思決定は強いほう、偉いほう、正しいほうが行うのであって、そうでない側の意見を聞くことなど意味がないからです。自分が正しいと思っている人間にとって、相手の意見を聞くのは時間の無駄です。
相手の意見を聞くときがあるとしたら、それは「論破」するために行います。論破とは「支配の言語化」の典型例と言えるでしょう。相手がいかに間違っているかを説明し、自分の考えを採用するように要求する行為です。一緒に使える言葉を作ろうとする共生の言語化とは真逆の言語化です。
そしてこのように考える人には共通項があります。それは「相手が自分の言うことを聞かないこと」に対して「自分が下という扱いを受けた」「恥ずかしい」「みっともない」と感じて「傷ついてしまう」のです。
例えば「全身を使ったスポーツがいいらしいから、水泳をしなさい」と言って「やだ、僕はバスケがしたい」と子どもが言うと「なぜ偉くて正しくて優れた自分が当然に決定すべきことに違う意見を言うのか? 自分のほうが上だと思っているのか?」と驚き、「どちらが上かを教える」必要があると考え、「自分は下ではない、言うことを聞かされる側ではなく、言うことを聞かせる側である」ことをはっきりさせようとするのです。
「子どもがやるスポーツ」という言葉、定義を、一緒に作っていくのではなく「やってもいいけどなんにもお金出さないよ?」「水泳だったら毎週送り迎えするけどね」といったふうに強要するのです。これが孤独になる言語化です。
そして相手が「わかった、水泳をやるよ」と認めれば、晴れて自分が上であること、正しいことを忖度される側であると証明することに繋がり、幸福感を覚えます。当たり前です。なぜなら、この二人の関係、家を、自分にとって気持ちのよい家具を1つ置いたようなものですから。自分が「よい」と感じることのできる子どもを持つこと、それは嬉しいことでしょうから。
しかし、その家は「子どもにとって」は生きやすい家ではないでしょう。そこにある家具はどれも自分の言葉を含んでいない、居心地の悪い空間だからです。しかし「母親にとって」は居心地がいい。そんな恐ろしい家になります。
その「居心地の良さ」は自分にとってだけかもしれない
というわけで「人と生きるための言語化」をしようとする人は、何かを絶対的に測れる基準がないことを知っているので、自分が何かをいいと思っているときは、なぜいいのかを考えることができます。そして、人はみな異なるので相手がどうしていいと思っているのか、その基準を知ろうとすることができます。
そして、居心地のよい生活とは、それぞれの基準が満たされる関係であり、無理をして自分じゃなくなってしまえば、絶対的な基準がない以上、誰かの基準に従っても苦しいだけだとわかっています。だから、相手の基準を知ろうとするときは、相手を尊重するためにこそ尋ねることになります。
そうすると「どうしてバスケがいいの?」と聞くことができるし、その基準が例えば「この辺で一番強いクラブがあるから!」と知ることができるかもしれません。実は野球や水泳も強いクラブがあるにもかかわらず子どもが知らないだけなら、それを紹介することもできるでしょう。
でも他にもいろんな理由があるかもしれないし、うまく言葉にできないかもしれないけれど、「それでも、なんかバスケがしてみたいんだよね」ということであれば、それを尊重したいと思うことができるでしょう。
背景には「水泳はもろもろ安いけど、バスケはシューズやユニフォームを買わなきゃいけないし、クラブの場所も遠いから送迎も面倒なんだよな……それにバスケしたいって言ってもすぐ飽きるかもしれないしな」といった思いがあるかもしれません。
それを自分なりに言語化していきながら、合意できるところを探していこうとすることが重要です。逆に、何もかも子どもの期待に合わせようとして、自分の居心地の悪い関係になってしまうのも辛いことです。さらに言うなら、なんでも相手に合わせることは、結果として、子どもが人と生きるための言語化を身につける機会を奪っていることでさえあります。