モラハラ・DV被害者が加害者を「可哀想な人だから助けたい」と思ってしまう理由…加害者が共通して持つ悲しい信念
モラハラやDVが起こるとき、そこには加害者と被害者が存在する。「加害者を支えたい」と考える被害者もいる中、モラハラ・DV加害者の当事者団体GADHA代表で自らも加害の当事者であった中川瑛氏は、「被害者にとって重要なのは、関係を終えてもよいと思うこと」と指摘する。加害者の持つ悲しい信念と、被害者が幸せになるための道とは――。全4回中の3回目。
※本稿は中川瑛著『孤独になることば、人と生きることば』(扶桑社)から抜粋・編集したものです。
「この人を助けたい」との思いがお互いを傷つけることも
モラハラ・DVなどの加害者が集まるGADHAのメンバーと話していて驚くほど共通していて、かつ本当に悲しいのは、彼ら彼女らがよく「人はどうせ裏切る」とか「強く振る舞わなければ搾取されてしまう」とか「優しくするとつけあがる、調子に乗る」「能力が高くなければ馬鹿にされる、恥ずかしい」といった非常に強い信念を持っていることです。
人と生きるための言語化が苦手な人は、生まれ育った環境の中でさまざまな理由によって言語化を抑圧され、難しくさせられてしまっています。「わがまま」「甘えるな」「調子に乗るな」と。
あるいは「過干渉」を通して、言葉を奪われてしまったり、逆に、だからこそ言葉を奪われないために攻撃的に振る舞うのです。それは僕自身もそうでした。今も決してそれがゼロになったわけではありません。
モラハラやDVの被害者の方の中には「この人は可哀想な人、助けてあげたい」と思い、結果として被害が長く続いてしまうことがありますが、それはまさに「加害者が持つ傷つき」を察知しているからだと思います。
しかし、忘れてはいけないのは被害者自身の「傷つき」もまた同様に事実であり、自分を大切にすることなしには、誰の傷も癒せないことです。
自分を大切にすることができる人だけが、相手を大切にすることが可能です。そうでなければ持続的な関わりにならず、結果として一緒にいられなくなり、相手は「また裏切られてしまった」と傷つきを重ねてしまうのです。
これは対人援助の文脈では「燃え尽き症候群」と称されることとも似ています。「援助者のための援助」が重要だとされるのは、誰も誰かのことを変えることはできないにもかかわらず、そうできるかもしれない、そうしたいと思って、支えられないものを支えようとしてしまって燃え尽きてしまう人がたくさんいるからです。
仕事で関わる人でさえこうなってしまうのですから、親子関係やパートナーシップなど、より距離が近い関係で、人の変容を支えることは極めて難しいことです。できることを、できる範囲でしかしないことが、人と生きるためには重要なのです。
むしろ持続不可能なほどの努力こそが、最終的には自分のことも相手のことも傷つける結果になってしまう。これはものすごく残酷なことだと思います。
被害者に加害者を支える責任はない
僕もGADHAの活動の中でこれをしてしまったことがあり、深く後悔しています。「これだけ手助けしているのに、どうして変われないんだ」と責め、ちょっと変化が見えると「よかった! そうだ人はやっぱり変われるんだ‼」と過剰に喜び、喜ぶがゆえに、また揺れ戻しで相手が加害的な振る舞いをするのを見たときの失望が生じ、失望がゆえに相手を傷つけてしまう。
最後には「もうこれ以上関われない!」と切り捨てるコミュニケーションを選びました。期待と失望によるコントロール、恥の感情を与える関わり、どれもが恐ろしい加害でした。
被害者には加害者の変容を支援する責任も義務も決してありません。まず誰よりも自分を大切にする。自分と共に生きる言葉を紡いでくれる人との関係を大切にする。自分を大切にすることの中には、自分を大切にしない人との関係を終了することを含む。それを自ら選んでよいと考えることができる。そういったことが、加害と被害の関係がある際には、とても大事なことだと思います。
究極的には、そこに加害-被害の枠組みを使う必要も必ずしもないかもしれません。ただ一緒にくつろげる世界を作れる人とは一緒にいたらいいし、そうできない人とは関係を終了したらいいと考える原則には、「どちらか一方が加害者で、どちらか一方が被害者」という区分が不要だからです。
決して人を傷つける人を免責したくて言っているのではありません。仮に自分が過去に傷つけられてきたとしても、今、目の前の人を傷つけていいとはなりません。
一方で、人と生きようとする人間が持つ責任を果たさないときに「それができるようになってほしい」と願い、伝えること自体は、加害ではありません。
とても多くの方が、これに悩んでいます。相手を「モラハラ」「愛着障害」「パーソナリティ障害」などと呼んで変わらせようとすること自体が、むしろ支配の言語化なのではないか、と不安に思う方もいるのでここに明記したいと思います。
「私は、あなたと一緒に生きていきたいと思っている。関係はどちらから終えてもよいという前提で、だからこそお互いを大切にし合いたい。あなたの感じていることを知りたいし、私の感じていることも知ろうとしてほしい。
どちらか一方が譲り続けたり、我慢し続けるのではなく、受け取っているものを認め合って、ずっと一緒にいたいと思える関係を作っていきたい。私も完璧ではないし学び続けていこうと思う。あなたにもそうしてもらえたら嬉しい」
自分を嫌いにならないために、距離を取る選択肢も
ただ、このメッセージを伝えるには怖いことがいくつかあります。一つは「頑張って丁寧に伝えたのにやってもらえなかったら、相手は自分と生きていきたくないんだ、自分には価値がないんだ。それを確かめるのが怖い……」という不安です。
この気持ちはとても自然な感情です。ただし、これを伝えたいと思っているときは、もう自分が傷ついているときだと覚えておく必要があります。このままいくと自分の生きていける関係ではなくなってしまい、距離を取らざるを得ない状況のはずです。相手と一緒に生きていきたいと願うからこそ、伝えることに意味があるのです。
そして結局のところ、相手が自分と生きていくために変わりたくないなら、そういう人から離れることこそが、自分を大切にすることです。「私たちの言葉」をいくつも積み重ねて、安心してくつろげる関係を持つことが幸福な人生です。
もう一つの恐怖は「そんなことを伝えたら相手から自分の悪いところ、至らないところを色々言われて反撃されそうでとてもじゃないけど言えない」あるいは「そういうことは、どんなに丁寧に伝えても、私が全部悪いね、私なんかいなければよかったね、でも自分はどうしようもなくて、生きてる価値なんてないよね……と落ち込まれて罪悪感でいっぱいにさせられてしまうから言えない」そんな恐怖です。
強烈に反撃してくるにせよ、過度に落ち込まれて罪悪感を刺激してくるにせよ、どちらもまさに「孤独になる言語化」をする人だと言えます。あなたの傷つきや幸福ではなく、自分のことにしか目を向けられない人たちだからです。
それでも最後に区切りとして上記のメッセージを伝える人もいるでしょうし、伝えることなく関係を終了する人もいます。そもそも関係は自由に終了してよいものであり、それを選んだ理由を相手に伝える必要もないと僕は思います。
また、他には「わかった、色々教えてほしい。変わるよ」と返事はしてくれるものの、実際には行動に移さないか、移してもすぐに忘れてしまう場合もあります。「何度か伝えているのですが、なかなか難しいようで、段々と自分もキツイ言葉で伝えることになってしまい、そんな自分が嫌になってきました……」というケースです。
人は何かを一度言われたくらいで簡単に変わることはできませんから、相手に期待して信頼してまた裏切られて……というループが続いてしまうことがあります。そんなとき、とても大切なことがあります。それは「自分を嫌いになってしまう前に、関係を終えてもよい」ということです。
孤独になる言語化をする人と関わっていると、無気力になったり、感情が平板になったり、依存症になったり、攻撃的になってしまうことがあります。そうしないと、自分を守れなくなってくるからです。どれも「昔の自分はこんな感じじゃなかったのに」と自分を責めてしまうことがあります。
「どうして何度言ってもわからないの⁉ 何回も信じさせられて、そのたびに裏切られて!あなたは口ばっかり、どうせ◯◯だから無理なんだ。信じた自分が馬鹿だった‼」と相手を罵ってしまい、罵っている自分が嫌になる……そんな状況です。
もちろん自分が信じられる範囲で信じることも、決して間違っていることではありません。同じ悩み・境遇の人と愚痴をこぼしつつ、相手を見守ることもできます。