なぜ羽生結弦とそのファンばかり、謂れのない報道をされ、心ない言葉を投げつけられるのか

「羽生結弦という存在」と共にあるが故の強さ
「なぜ羽生結弦とそのファンばかり、謂れのない報道をされ、心ない言葉を投げつけられるのか」
この一部メディアや心ない人たちに対する切実な問いかけ、私の元に多く届きます。直接的な、もっと強い言葉も届きます。むしろ後者のほうが多いでしょうか。
もちろんその強さは「羽生結弦という存在」と共にあるが故の強さを内包している、正しい強さなのですが。
これまでの連載で、私はフィギュアスケートのみならず人物史としての、芸術史としての羽生結弦という存在に触れてきました。そして、その「歴史」という点で必要であろうと判断して、羽生結弦に対する一部の報道やSNSによる心ない中傷、羽生結弦のファンに対する揶揄(あるいは冷笑)にも触れました。日本だけの話でなく、世界を見てもかつてのカタリナ・ヴィットやエフゲニー・プルシェンコに対する同様の報道やファンに対する揶揄があったことも挙げて述べてきました。
それでも疑問は残ることでしょう。「なぜ羽生結弦とそのファンばかり」と。
羽生結弦という存在には良いことだけで構わない
私は羽生結弦という存在の芸術性とアスリートとしての矜持、そしてフィギュアスケート史において稀有の歴史性と社会性を書きたくてこの連載を受けました。もちろんいずれ、こうした偉人について回る負の面も書くことは予想していました。どのような偉人も、その当時の一部メディアや大衆の批判や揶揄に晒されるのは常ですから。