だからこそ私たちは声をあげなくてはいけない…羽生結弦を貶める「虚構」そして「卑怯者」の記事

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これがそうした媒体の手口である。反応があればしめたもの
比べて、いずれかを貶める。
それは至極誤りなのだが、その誤りをあえて行う。これがそうした媒体の手口である。
反応があればしめたもの、実際のところ、それが目的であり、つまるところ目的外利用である。
先に書いたが、正確には単に「比べる」ことと「比較」は異なる。学術的にも「比較」は重要である。それは漢字にあらわす通りである。
選り抜くなら「比」とは人と人を並べることになる。文字通り単に人と人、転じて物と物を「比べる」ことなので、「比べる」だけなら善意にも、悪意にも使われる。
次に「較」だが、これも「較べる」(常用外)である。しかし語源を見てほしい。車に交わる、と書くのだが、これは馬車の両サイドにあるつかまる場所「較」となる。要するに乗り手のつかまる左右、ひいては二頭の馬(手綱)を指すことになるが、それを「較べる」そして改善に導くことは馬車をより正しく前に進めることになる。馬車の左右に非対称性があるなら前に進むのに芳しくない。だから左右を較べ、物事を前に進める、ということになる。これがあって初めて、本来の意味である「比較」という意味を為す。比較文化論や比較史、比較宗教学などはそうした「比較」に基づいた学問である。