ムサコって川崎でしょ?治安大丈夫?…ブリリアンの悲哀 窓際三等兵・連載タワマン文学「TOKYO探訪 武蔵小杉」
嘘か本当か一見わからない……「ツリー小説」を突然ツイッターで発表し話題を呼んだ「元祖タワマン文学作家」窓際三等兵先生が、みんかぶで連載「TOKYO探訪」をスタートしました。死にたいくらいに憧れた花の都「大東京」で繰り広げられる「見栄と妬みのマウント合戦」を、慈愛に満ちた窓際先生が書き綴ります。果たして、タワマン最上階で炊いた米は本当に固いのでしょうか……。
東横線でも、川崎市という地名に「拭い去れない違和感」
「牛乳切れたから帰りに買ってきて」
妻のLINEに「OK」のスタンプを押すのと、電車が武蔵小杉駅に到着するのは同時だった。武蔵小杉、略してムサコ。天を衝くようなタワマンが林立するこの街が帰る場所になってから、もう7年が経つ。
学生時代、慶應大学に通っていた頃に住んで以来だが、あの頃とは随分と景色が変わった。小汚い工場や駐車場が広がっていた駅前は整備され、小綺麗な、そして去勢されたかのように無個性な街になった。学生時代にサークルの仲間たちと笑笑で鍛高譚を飲んで駅前のロータリーでゲロを吐いていた、俺の知っているムサコの面影はもうどこにもない。当時と変わらないのは、駅前のロータリーに並ぶ、クリーム色の旧型クラウンのタクシーだけだ。
駅の改札を抜け、スーパーに向かう。フーディアム武蔵小杉。タワマン住民に合わせて少しお洒落なラベリングを試みてはいるが、要はダイエーであり、つまりはイオンであり、そこにあるのはトップバリュだ。入り口の冷蔵庫には、見慣れたピンクのマークとともにCAVAと書かれたボトルが並べられており、528円で売られていた。少し悩んだ後、730円のロゼをカゴに入れた。後ろの棚に並べてあった5780円のモエシャンドンよりは味が落ちるかもしれないが、ブラインドで飲んだら違いが分かる自信はない。
誤解を恐れずに言えば、現代日本におけるムサコとはプライベートブランドの街だ。有名大学を卒業し、名の通った企業に就職し、エリートサラリーマンとして年収1000万円を稼ぎ、そして35年ローンでタワマンを買う規格品の人生。そこに個性は求められていない。背伸びして東京に住んでカツカツの生活を送るくらいなら、ムサコで良いじゃんというギリギリの妥協。住所を書くたび、川崎市という地名に拭い去れない違和感を覚えながらも、「まあ東横線だし」と自分に言い聞かせる日々。
今年で40歳になる。慶應大学経済学部を卒業し、みずほ銀行経由のデロイトトーマツコンサルティング。外資の戦コンに転職したり起業したりするほど優秀でもないけれど、全国転勤に怯えるかつての同期に優越感を感じられる程度のキャリアもそう悪くはない。名前を残してやろうなんて大層な野望は持たず、ほどほどに働き、ほどほどに稼ぐ。そんな人生。
Picardの8個799円冷凍クロワッサンを買える人なんて元々川崎に縁がない
みずほの地方支店で働いていたとき、東北大卒の次長に「銀行業務検定財務2級落ちるとか、お前慶應で何勉強してきたの?」と詰められた。金曜の深夜2時まで場末のスナックに連れ回され、週末はゴルフバックを担いで「ナイショー!」と絶叫した。あの頃は配属ガチャと上司ガチャに同時に失敗したと思ったが、転職した今となってはすべて笑い話だ。ムサコのタワマンに引っ越すのに合わせて、埃をかぶっていたゴルフセットはメルカリで売った。
地方の女子大を卒業し、みずほの一般職として勤めていた妻との関係も良好だ。東京赴任についてくる形で異動したものの、地縁もない東京の支店で投信を売ることに嫌気が差して「子供と向き合いたい」と専業主婦になった妻。お小遣い制の導入を求めてくるのは閉口するが、無理して東京に住み、共稼ぎとペアローンで消耗するよりもよほど健全だ。我ながら、ムサコという街に最適化された人生であり、適応した家族だと思う。何の予定もない週末はグランツリーと東急スクエアで買い物をして、時にはみなとみらいや鎌倉まで足を伸ばす、それで充分だ。
規格品としての人生を受け入れ、多摩川を超えた先にある、柔らかく温いベールに包まれた桃源郷。そこには上も下もなく、ただトップバリュとセブンプレミアムがあるだけだ。ちょっと贅沢したい気分のときには成城石井だって用意されている。この居心地の良さは、住んだ者にしか分からないだろう。Picardはもうすぐ潰れるけど、8個799円の冷凍クロワッサンを買える人なんて元々川崎市には縁がないんだから、誰も気にしない。
「え、ムサコって川崎でしょ? 治安とか大丈夫なの?」
神保町の居酒屋でジョッキを重ねる大学の同級生に対して、中原区と川崎区の違いを説明するのにも慣れた。駅前でキッズがスケボーに興じ、ラップの韻を踏んでいるのは川崎区だ。確かに南武線も通ってはいるが、まあ普段の生活では使わないので問題ない。Kawasaki Drift? これ以上その話はやめてくれないかな。
家に帰ると、「パパ、今日の大谷のホームラン見た? やっべえよ」と小学4年生の息子が駆け寄ってきた。今年小学校にあがったばかりの弟も訳も分からず興奮している。将来の大谷を、そして村上を夢見て多摩川河川敷のグラウンドで少年野球に興じる子供たち。上昇志向に駆られた東京の異常な子育て環境に比べ、ムサコの程よい緩さを象徴する光景だ。SAPIXの校舎はあるものの、中原区から私立中学に進学するのは4人に1人。4割を超えるような都心とは大きく異なる。
ヤフコメ民の「タワマン暴落」音頭に気分を害する日々
我が家の息子たちも、中学校は公立に通わせ、慶應義塾高校に入れるつもりだ。SAPIXから中高一貫校に行って5教科7科目をやって東大に行った所で、どうせてにをはハンコマンになるんだから、だったら早慶の方がコスパが良い。最低限の努力でそこそこの生活、コスパ思考を突き詰めた先にある、現代日本における中の上の人生。これが私の生きる道。
東横線が副都心線と接続されたことで、新宿や池袋にも電車一本で行けるようになった。神奈川に住んでいながら、東京や埼玉の良いとこ取りができるのが、ムサコという街の良さでもある。タワマン高層階から眺める、どこまでも続く関東平野。この夜景を見る度、視界の全てが自分のためにしつらえられたかのような高揚感が全身を包む。
「もうすぐ寝る時間なんだから、子供たちを興奮させないでよ」と妻。ごめんごめんと苦笑しながら、子供たちの歯を仕上げ磨きして寝室の二段ベッドに押し込む。「えー、まだ眠くないよー」と言いながらも、5分後には寝息が聞こえてきた。気を取り直して、さっき買ったスパークリングをリーデルのシャンパングラスに注ぎ、乾杯する。リビングに響く、チン、という小気味良い音。幸せとはこういうことなんだろうな、と思うと思わず笑ってしまった。
思えば22年前、長野から東京に出てきて、右も左も分からないまま大学生協の言うがままに武蔵小杉のアパートを選んだんだった。実際は新丸子の方が近かったけど、友達には見栄を張ってムサコに住んでいると言い張っていた。今は自信を持って言える。ムサコに、住んでいますと。俺は自分の人生を武蔵小杉にベットして、そして勝ったのだ。
妻がシャワーを浴びている間、スマホでTwitterをチェックする。またどこぞの自称マンション評論家がヤフーニュースで「タワマンは暴落する」と馬鹿の一つ覚えで論陣を張っている。ニヤニヤしながらヤフコメを見ると、「台風来たらトイレが使えないようなタワマンに住む情弱」とヤフコメ民が馬鹿の一つ覚えで叩いていた。
オリンピックが終わったらマンション価格が暴落するという根拠のない言説を信じ、今となっては郊外のマンションかペンシルハウスしか買えなくなった可哀想な人たち。彼らのそうあって欲しいという願望に反して、ムサコのタワマン価格は右肩上がりで上昇が続いている。住宅価格の高騰と相まって、ムサコというのは嫉妬される街となったのだ。アンチコメすら、心地良い。
死んだ魚の目をしながら改札に向かって列を作るサラリーマン
SNSで高まった気分をぶち壊しにしたのは、またSNSだった。ふとfacebookを開くと、そこには誰も興味がないランニング写真と合わせて自分語りをしている銀行時代の先輩の投稿と並んで、起業した大学の同級生が自分のインタビュー記事を紹介していた。腕を組んで、日本の未来を語るかつての友人。自分の内なる劣等感を揺さぶられ、そっと画面をオフにする。
寝る前に変なものを見たせいか、寝付きが悪く、睡眠が浅かった。今日は帰りに駅ビルのてもみんで身体でもほぐしてから帰るか。その位の贅沢は許されるはずだ……。朝、そんなことを考えながら子供たちと一緒に家を出る。学歴でも年収でも肩書でもマンションの含み益でもなく、50メートル走のタイムが自身の価値となっている息子たちの純粋さが眩しい。
朝の武蔵小杉駅名物、死んだ魚のような目をしながら改札に向かって列を作るサラリーマンたち。それぞれの人生でささやかな勝利を得たはずの我々に対し、社会の歯車であることを自覚させる暴力的な儀式がまた始まった。今日は台風の影響で朝のダイヤが乱れたらしく、いつもより混雑が酷い。横須賀線のホームにようやくたどり着いたが、おしくらまんじゅう状態で全然前に進まない。新型ホームの供用が開始されればこの混雑も少しはマシになるのだろうが、どうせ次々とタワマンが建設され、元の木阿弥になることは目に見えている。所詮、俺たちの「成功」なんて、その程度のものだ。
この湘南新宿ライン宇都宮行きに乗らないと、クライアントとのミーティングに間に合わない。人間をスーパーの棚に並ぶ商品か何かと勘違いしたかのように粗雑に扱うJR東日本に、そして全てを手に入れたはずなのに決して満たされない自分自身に苛立ちながら人波をかきわけ、電車に無理やり身体をねじ込み――その刹那、電車の中の何者かに突き飛ばされた。「危険ですので、次の電車をお待ち下さーい」。呆然と尻もちをつく中、ホームに流れる無機質なアナウンス、周囲からの冷たい視線、去っていく電車。
そこそこの学歴、そこそこの職歴、そこそこの家。俺は一体、何に勝ったんだっけか。電車が去った駅のホームからは、天を衝くようなタワマンが何本も見えた。
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窓際先生が、次は「あなたの街」を襲います!
ご意見、ご要望は twitter: @minnanokabusiki まで。