日本人の多くが知らない、歴史上の偉人の中にいる本当の価値…羽生結弦『今世紀最高のアスリート』考察

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人として何ができるか、何を成し得るか
アスリートに限らず、人として何ができるか、何を成し得るか、それはとても大切なことだ。
もちろん「自分にとって」何ができるか、何を成し得るかということになるが、それが家庭であれ、仕事であれその人それぞれの喜びとなる。
たいそうなことでなくていい。何だっていいんだ。仕事がうまくいった、趣味が上手になった、子どもが成長した――推しが元気でいてくれるでも、いい。そうやって人の歴史は進む、世界は受け継がれる。
ただし、それが許されない人、というのがある。自分ごとや、自分の周りの小さなことではなく、もっと大きな社会や、世界や、あるいは歴史そのものに「人として何ができるか」「何を成し得るか」を問われてしまう人である。
歴史上の偉人の中に羽生結弦がいること
それが究極的になると「周囲の期待」などという通俗的な話でなく、何か見えない力によってその時代の、さらにその先の歴史の要請を受ける人として歩むことになる。
無論、滅多に出現しない人だ。
哲学者カール・ヤスパースはこうした人の出現こそ「人間存在の自覚」と定義し、人類史の変革にはこうした人が必ず出現すると説いた。ヤスパースはとくにブッダ、孔子、イザヤ、プラトン、ホメロスの同時出現した紀元前500年ごろを「枢軸の時代」と呼んだ。現代に至る私たち人の「人間存在の自覚」が一気に加速した。時代が、歴史が変わった。
私はそういう人をこれまで「時代の子」「歴史の人」と呼んできた。そして現代の、そして歴史上の人の中に羽生結弦という存在があることをずっと説いてきた。
2024年8月6日、国連機関のユネスコ本部で開催された国際スポーツプレス協会(以下、AIPS)100周年記念式典で羽生結弦が今世紀最優秀アスリート男女20人のうちのひとりに選ばれた。
これについては先に、前提としての評価とそれを黙殺するメディア(普段は商用利用してきたはずの大新聞やテレビ局含め)について書いた。そこで私見を交えなかったのはあえて浮き彫りにしたままにするためである。「ジャッジしない」とも書いた。もっとあえて書くなら「ジャッジする価値もない」である。
この国の野球は戦前から体制といびつに結びついている
上下や優劣の話でなく、羽生結弦をアスリートとしての芸術面、そして文化面を語る上で、この国のメディアの多く(ここで一部とは言わない)は「羽生結弦のことを語るレベルにない」と思う。偉そうに言っているわけでなく、実際にそうなのだから仕方がない。