『Echoes of Life』に込められた羽生結弦からのメッセージ… その一瞬を信じて、羽生結弦を、信じて
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人間にしかできないこともどんどんとなくなり始めています
〈AIやテクノロジーが発展している今、人間にしかできないこともどんどんとなくなり始めています〉
羽生結弦『Echoes of Life』。
生命倫理が〈「命」とは何か〉ならAIが〈「わたし」とは何か〉ということか。
例えば、いまはなき偉大なフィギュアスケーターたちのデータを使ったデジタルレプリカによる新規のAI映像。時代的にオンドレイ・ネペラやジョン・カリーあたりからなら映像データも豊富だ。彼らの新規の演技を、その映像で現代に蘇らせることも可能だろう。上質な映像の蓄積された現代の選手ならもっとそうに違いない。
しかしそれらは、本当に「彼ら」なのだろうか。
羽生結弦のデータを蓄積して、AI羽生結弦を作り出したとして、それも勝手に――それは本当に羽生結弦という「わたし」なのだろうか。
生きることは創造である。私たちは日々「わたし」を創っている
私はここで意図的にAIを「作る」としている。私たち人は、私たちそのものによって「創る」からだ。
「作り笑い」という言葉がある。私は造語だが「創り笑い」もあると思う。先に挙げたイラストや声優の演技、ハリウッドスターや脚本家などAIに警鐘の声を上げる例を紹介したが、そうしたクリエイティブな世界でなくとも日常の中で人は生きるという創造の日々を為していると思う。冷笑からすれば綺麗事と言うだろうがそんなことはない。生きることは創造である。私たちは日々「わたし」を創っている。
「わたし」を「作る」とするならそれこそ「作り笑い」のそれだろう。表向きの仕草、それはそれで誰しもそんなものだが、同時に「わたし」を「創る」こともまた人の暮らしそのものであるように思う。作ることはその場限りだが創ることは成長につながる。
AIも過渡期、科学としての進化を望めるものもあれば、人間を脅かすものもある。人類史における発明でいえば火薬しかり、内燃機関しかり、核しかり。
「希望」が込められている
〈ただきっと、創り上げていくチームと、公演を観てくださる皆さんと一緒なら、その一瞬は「私たち」にしかできないことに変わると信じています。〉
『Echoes of Life』のメッセージはそうではない「希望」が込められている。正しいか、正しくないか、「それ」は本当に「それ」なのか――AIという技術革新によってますます曖昧になる世界、AIゴッホが蓄積データの末に新作を発表し、AI加藤みどりがサザエさんの声を続ける、AIアンナ・パブロワが永遠に踊り続け、50年後、100年後にAI羽生結弦は――。