「本屋さんの救世主、羽生結弦」…多くの人々に読んでもらえた喜び、その本屋さんの喜びを曲解する「心ない人々」

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本屋さんは何も悪くない。なぜこれを攻撃する心ない人々がいるのか
リスペクト――良質な「比較」にはまずリスペクトがある。本屋さんのポストはまさに羽生結弦と文芸ベストセラーに対するリスペクトであった。それをなぜ非難するのか、私には到底理解できない。
あの日、本屋さんは何も悪くない。
なぜあれを攻撃する心ない人々がいるのか、理解できない。
そもそもが、あれで「貶めている」と捉える感覚が理解できない。
文芸ベストセラーの部数、まして主要文学賞や本屋大賞などのベストセラーの部数は相当数に上る。漫画と文芸は創作出版の花形だ。出版社に長く勤めた私にはよくわかる。世にいうベストセラーも手掛けた。
それと比較しても羽生結弦の書籍は売れている、とする報告のどこに「貶めている」要素があるのか。
はっきり言わせてもらうが捉え方に悪意があり過ぎる。悪意がないなら教養の不足としか言いようがない。何度も書いてきたが、こうした曲解には明確に声を上げなければ言いたい放題にされてしまう。おかしいものはおかしいのだ。
また、本屋さんのポストは書店として多くの人々に読んでもらえたという喜びのポストでしかなかった。文学賞受賞によるベストセラー化、本屋大賞受賞によるさらなる売り上げの伸び、それよりも羽生結弦の書籍が売れたという事実と喜びの素直な、極めて素朴なポストでしかなかった。
書店の経営はどこも厳しい。書店の数は最盛期の半分に減った。雑誌の売り上げもまた最盛期の1万5633億円から30.7%の4795億円まで落ちた。そのような中でこの売り上げの記録、羽生結弦はまさに「本屋さんの救世主」だ。
だから本屋さんは素直に喜んだ。良書が売れている、みんなが喜んでいる、と。そして日本を代表する売り上げを記録し続ける文芸ベストセラーのジャンルよりも売れていると書いた。
低級過ぎてゴシップメディアすら見向きもしない攻撃
何がおかしいのか、私には本当に理解できない。
私にはこれが「貶めている」だの「作家に失礼」だのとは到底受け取れない。どこをどう曲解したらそう取れるのか、悪意がそうさせているとしか言いようがない。それ以外でわざわざ攻撃する意味がわからない。
実際、羽生結弦をそれこそ「貶める」のにご執心のゴシップメディアもこの件はスルーであった。ゴシップメディアすら相手にしない難癖、いちいち噛みついてお気持ちを垂れ流すことなどSNSに珍しくもないが、低級過ぎてゴシップメディアすら見向きもしない攻撃。本屋さんは何も間違っていないのにかわいそうとしか言いようがない。理不尽過ぎる。
もちろん、羽生結弦と共にある人々はそうした連中と違い冷静であった。そもそも「何を噛みついているのか?」という疑問のほうが先に来るような代物だったが、まず気に掛けることはそうした連中を相手にするのではなく本屋さんに対する感謝と気遣いの言葉の数々だった。
こうしたところにファンの質が顕れる。もちろんどこのファンと比べての話ではなく、羽生結弦と共にあるからこその「質」の話である。良質な「比較」にはリスペクトがある、それを羽生結弦と共にある人々はよく知っている。羽生結弦という存在を通して磨いてきた「質」だ。唯一無二の、羽生結弦と共にある「質」だ。