命を懸ける。命を削る。「平昌五輪の構成じゃないと駄目」それが羽生結弦『Echoes of Life』「この世界だからこそ伝えたいこと」

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それだけリスクのあるものを、なぜ?
テレビ朝日『「Echoes of Life」羽生結弦が紡ぐ究極のストーリー』
「羽生結弦さん、それ以上、命を削んないで」
松岡修造の現役時代を知る人からすれば「命を削ってきた松岡が言うか」だが、そうした松岡だからこそわかるものがある。ある意味、知る松岡だからこその言葉というべきか。
松岡は続ける。
「特にバラードの1番、別にあそこ4回転じゃなくても誰も何も言いません。だってひとつのショーだから。それだけリスクのあるものを、なぜ(アイス)ショーに持ってくるんですか」
「一所懸命」の「懸命」の理由を引き出すための問い。
羽生結弦は答えた。
「表現という場において、この強さと正義は必要だったと思うんですよ」と。
本当に厳しい人だ。自分に厳しい人だ。
自分を超えるために命を削る、それが自然と人々のためにもなる――そうした定めの人とは、こういう人のことを言うんだ。
バラード第1番は「奇跡の演技」と松岡も言及した通りの高難易度であり、まして暗いショー演出の中での演技、羽生結弦自身も「難しかった」と率直に語っている。それでも構成は平昌五輪の「奇跡の演技」であるべきとも。
そしてこうも言った。
「自分の脳で処理できないような凄いことが起きると感動する」
「それを表現って呼びたい」
羽生結弦という「火の鳥」はいとも簡単に焼き尽くした
以前、私は羽生結弦について思想家オットーの『聖なるもの』を引いてこう述べた。※注1
たとえば「GIFT」『火の鳥』について。
「私はどうしていいか、いきなりわからなくなってしまった。アスリートであり、芸術である羽生結弦という存在は「哲学する人」でもあった。火の鳥としての高次元の「告白」に、私は動けなくなってしまった。そして「美しい」と同時に「恐ろしい」と感じた。宗教学ではこうした感情を「ヌミノーゼ」(聖なるものに対する畏怖)と呼ぶのだが、それはまさしく「畏怖」だった」 ※1
「私はただ受け取ればいい、そう思っていた。あまりに甘すぎた。火の鳥の羽根は美しいが、それを手にした者をも時に焼き尽くす。私にその覚悟がなかったということか。だって、フィギュアスケートである。アイスショーである。そんな私の俗人的な思考を、羽生結弦という「火の鳥」はいとも簡単に焼き尽くした。この国は、とんでもない「怪物」(後述)を抱えてしまっている」 ※2
そして「SOI2023」『あの夏へ』について。