「ただいま、東北」…現地でも、そうでなくとも私たちの心は星、月はいつもそこにある。羽生結弦はそこにいる。『notte stellata 2025』

目次
約束の地に、「明日」を信じた羽生結弦と私たちのもとに
祈りと希望、明日を信じる力――。
30年の「今」を積み重ねた『notte stellata』
それには、セキスイハイムスーパーアリーナでなければならない。
それもまた、揺るがない。
羽生結弦とは、そういう人だ。
2025年3月。
羽生結弦の30年という「今」を積み重ねた『notte stellata』がやってくる。
約束の地に、「明日」を信じた羽生結弦と私たちのもとに「今」、星々がやってくる。
あの2024年もまた初年の熱気のままに――いや、さらに凌駕するアイスショウだった。
羽生結弦は羽生結弦を超える
羽生結弦は羽生結弦を超える。それはアーティストとしてよりアスリートとして、競技に命をかけたからこその「性」なのかもしれない。自分との闘いに生きる闘争者――そうでなければ結果を残せない、そのシステムの中でもまれた「性」なのだろう。
アランと同様にニーチェも「意志」は力であると重要視している。意志による闘争は破滅でなく進歩、理性と調和の闘争が生き残る、劣位を優位に変えることで弱者もまた進歩する、高い目標とはそうして実現される――人も、社会も。ニーチェは厳しい、羽生結弦と同様に厳しい。真に自己に厳しい人ほど愛は他者へと向かう。『notte stellata』もまた、それだ。
2024年の『notte stellata』といえばやはり『カルミナ・ブラーナ』そして『ダニーボーイ』だ。私は優劣でなく、史実としての重要性で言っている。
羽生結弦という系譜
〈見えない糸が見える。運命の糸が見える。人と、定めとの葛藤、羽生結弦の四肢はそれほどに躍動する。バレエのそれと同様に、四肢が人を表現する。運命に祝福され、ときに弄ばれし人を〉
〈青年の翻弄される姿は危うく、だからこそ気高くそこにある。そして純粋無垢な青年の心は、運命に打ち勝つ。運命に祝福されるそして純粋無垢な青年の心は、運命に打ち勝つ。いや、私はあえて「運命に祝福される」としたい。それまでの禍々しさは消え、女神=天の女王は羽生結弦を祝福するかのように、さらなる楽園を創造する〉
〈「音楽と共に滑り、踊る」というフィギュアスケートの形が産声を上げておよそ150年、ジャクソン・ヘインズによる現代のフィギュアスケートとアイスショウの原型はアイスフォリーズ、ホリデイオンアイス、ボリショイアイスなどの興行となり、そしてソニア・ヘニーやディック・バトン、そしてカタリナ・ヴィットといったオリンピアンたちがつないできた。その欧州文化がいま、日本の羽生結弦(すでに「世界の」だが)によって受け継がれ、さらなる進化を遂げている。羽生結弦という系譜が誕生した〉
優劣や上下ではなく「超える」
私は「カルミナだ!」と心で叫んだ。大地真央という大女優を得て、巨星を得て、羽生結弦が暗黒の刻をもがき、運命に打ち勝ち、祝福される姿こそ羽生結弦という存在を象徴するカンタータに他ならなかった。
〈羽生結弦もまた、いや誰よりもそうした運命に苛まれた道を辿ってきた。歴史的な栄光、時代の寵児、羽生結弦が偉大であるからこその運命と言うにはあまりに残酷な話だが、それでも羽生結弦は「天使」のままに、神の子のままに成長した。だからこそ、稀有な存在がゆえに人を惹きつける、悪をも惹きつける〉
今回は野村萬斎、すでに『SEIMEI』からして珠玉だが、おそらく超えて来るだろう。繰り返すが優劣や上下ではなく「超える」のだ。羽生結弦は本人の断言する通り、常に「超える」。
そして『ダニーボーイ』――もう羽生結弦の代表作のひとつとして、いや人類の宝になりつつあるプログラムだ。
人類史において重要なプログラムは?
〈羽生結弦にとっての「ダニーボーイ」における美意識は、過去と未来、希望、そして祈りにあった。そのフィギュアスケートによる体現が「美」となり、私たちにとっての「美しいなあ」という共鳴とその先の「尊厳」につながっている。羽生結弦、本当に偉大な表現者だ。そして「震災」を起点としているからこそ、そこに本質が見えてくる。『notte stellata』という総合芸術の本質も見えてくる〉