そうだ、取り憑かれるのだ。「狂う」のだ…野村萬斎と羽生結弦、霊力の「狂演」『羽生結弦notte stellata2025』紀行(4)

目次
霊力の支配する時空
羽生結弦がなんとしてでも『notte stellata』を神事、神の域に達するためには、人々の祈りによる救済、それもフィギュアスケートで――となれば、共演としての「狂演」が必要だった。
それには「時空の歪み」「霊力の支配する時空」が必要だった。場の時空を歪め、支配するほどの霊力の狂演者――。
なるほど、野村萬斎だ。
〈『notte stellata』を立ち上げる当初から、萬斎さんといつかコラボレーションしたいと話していました。ボレロというものが「鎮魂」と「再生」の物語ということも含めて、絶対やりたいなと〉
のちに羽生結弦はこう語っているが、立ち上げからの渇望――野村萬斎とのコラボレーションという「狂演」。
この「狂」は萬斎の言葉にある。萬斎自身が自著『狂言サイボーグ』でこう書いている(※1)。
野村萬斎の「狂」
〈「狂言」という字を見ると、いかにもいかつい言葉である。「狂」の字がその原因であろう。しかし「狂」の字は「物狂い」やシャーマニズムに代表されるような、取り憑かれた状態を意味するとも聞く〉
〈演じるということはそもそも「狂う」ことであろう。登場人物になり代わり劇場空間を「狂」の状態へ誘う。しかし我々能楽師・狂言師はそれを観念や感情だけで起こそうというのではなく、あくまで身体的昂揚に頼る。逆に感情なり、エネルギーが高まれば必ず身体は反応して動く〉
その理論のままに、野村萬斎と羽生結弦の「狂」の幕が開けた――私はラヴェル『ボレロ』のリズムに、それこそ「神話的時間」に幽閉されてしまった。
そうだ、取り憑かれるのだ。狂うのだ。
特徴的な三拍子、これが延々と続く上に旋律は二通り、人が神と対話するための規則的な「音」。
そうだ、取り憑かれるのだ。
狂うのだ。